
皆さん竹中半兵衛(たけなかはんべい)はご存知ですか?
羽柴秀吉(はしばひでよし)が軍師として三顧の礼(さんこのれい)で迎えた、天才武将です。
非常に短命で、軍師の役を黒田官兵衛(くろだかんべい)に引き継ぐとすぐに亡くなっています。

三木市の市長さん、確かに敵方とはいえこんな扱いで良いの?
戦いは行われてはいたのですが、秀吉初めての包囲戦で相手は籠城した「別所長治(べっしょながはる)」でした。
そんな中、名軍師!今孔明と詠われた竹中半兵衛重治が36歳の若さで病没してしまうのです。
三木城攻防戦は「三木の干殺し(みきのひごろし)」といわれるほど過酷な戦いでした。
そんな大変な戦があった「三木城址」と三木城攻略戦の最中に亡くなった、孤高の天才軍師!日本の諸葛孔明ともいわれる、竹中半兵衛重治のお墓に行ってきました。
三木城址を訪ねて。
今回は、取材で、三木城址を訪れました。
しかし、近くに行っても場所がよくわからなかったので、コンビニで道をたずねました。
すると、店長らしきおじさんが出てきて、こう言いました。
「うちの殿様も、もう少しうまくやればな~」
コンビニ店長さんからふと漏れた、地元の英雄「別所長治」を懐かしむ言葉に、私は驚かされました。
先頭の終盤、別所長治は城内に逃げ込んでいた民衆を助けるために、城を開城し一族で自害したのでした。
そんな地元の皆さんが愛する「別所長治」の居城「三木城跡」を取材に行きました。
さらには、本日の目当て、「竹中半兵衛」の墓も取材してきましたのでご覧ください。
摂津・播磨の状況説明!
時代背景ですが、織田軍中国地方攻め司令官、羽柴秀吉小寺勘兵衛(黒田勘兵衛)の活躍もあり、播磨を平定した矢先の天正6年(1778年)三木城主、別所長治が毛利に通じて突如反旗をひるがえします。
備前、宇喜多直家(うきたなおいえ)の動向もいまだに不明なとき、 秀吉軍は播州(姫路)で前後ろを挟み撃ちされる形になり、中国攻めを一時的に中断せざるをえない状態になります。
これにより上月城代(こうずきじょうだい)の尼子氏を見捨てざるをえなくなり、毛利軍・吉川元春(きっかわもとはる)らに攻められて上月城は城を開いて白旗を上げます。
尼子氏の当主、尼子勝久(あまこかつひさ)は切腹し尼子氏は断絶、猛将・山中鹿之助(やまなかしかのすけ)も誅殺されてしまいました。
壮絶「三木の干殺し」
別所家は播磨の名門(名門が故に新参の秀吉配下に反発した説もあります。)、三木城は周りの一族、国人衆の支城も含めての籠城戦に入ります。
織田信長の命例とはいえ、不本意ながら上月城を見限った、羽柴秀吉は三木城攻略に全力を注ぐことになります。
しかし、正攻法ではこの城は簡単には攻略できないと判断し、三木城を孤立させ兵糧攻めすることを決意します。
羽柴秀吉は、周囲の支城をひとつひとつ落とすと共に、補給路の封鎖をはかり、兵糧攻め戦術を取ります。
「戦わずして勝つ!」包囲戦は秀吉としては始めてで、その後の城攻めの転換点となりました。
この籠城戦は、荒木重村(あらきしげむら)・小寺政職(こでらまさもと)の裏切りや応援も加わって、二年近くの長期におよびました。
毛利氏も対織田軍の重要な拠点となる、三木城をなんとか助けようと、兵糧を三木城に送り込むことに力を注ぎますが、そのたびに秀吉にはばまれています。
食料の届かない城内では、草はおろか、草木の根や虫、蛇、ネズミ、牛や馬まで食べつくし、飢え死にする者が続出したと記録されています。
天正8年(1580年)1月、三木城内の食料が完全に底をついたことを見越して、織田軍は三木城内の支城(中心部以外)に攻撃をかけます。
6日には長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日には長治の叔父、吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなりました。
14日に入って、長治の叔父、重棟(重宗とも)の城中への勧告により、城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件が秀吉から出されます。
17日、ついに長治一族が切腹(長治の叔父、吉親は抗戦しようとして城兵に殺害されます)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。
別所長治、辞世の句
「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば」 現代語訳:自分が死ぬことにより、長年親しんできた多くの 領民の命が救われると思えば何の恨み もない
この戦いは、その凄まじいまでの城内の様子から「三木の干殺し」といわれるようになりました。
城兵や領民の命を助けるために、自ら切腹を選んだ、長治の遺徳が三木の皆さんの中に、名君として残っていることを感じた三木城趾訪問でした。
長治公首塚「雲竜寺」
安土の信長の元に送られた長治の首を雲竜寺の住職が持ち帰り、夫人とともに埋葬して弔ったといわれています。
この戦いが自軍の兵を消耗せずに戦う、秀吉の最初の戦いだったといわれています。
これは秀吉の兵站(へいたん)に対する認識が変化した最初の戦いだったと思います。
その最終形が北条氏を攻めた、小田原城攻防戦と考えてよろしいのですね、先生。
竹中半兵衛重治の墓参り!
え!こんな所に?
三木城址を取材した後は、孤高の天才軍師!日本の諸葛孔明ともいわれる、竹中半兵衛重治のお墓にお参りしてきました。
場所は、兵庫県三木市!三木城包囲攻略戦、羽柴秀吉本陣近くの山裾の畑側です。
あの、竹中半兵衛の墓がこんな所に?と思わずにはおられないロケーションです。
天才・竹中半兵衛の逸話!
竹中半兵衛といえば、十数名であの難攻不落の稲葉山城を攻略したにもかかわらず、さっさと斎藤龍興に返上して隠居してしまったことで有名ですね。
その半兵衛が1日で攻略した、稲葉山城(岐阜城)を少しご紹介します。
稲葉山城(岐阜城)模擬天守、景色が素晴らしく、天下に号令をかけたくなる気持ちが解りました!
329m下の長良川の隣の長良川球場から、高校生の夏の高校野球大会の掛け声が聞こえてきました。
お土産に「天下布武」のTシャツ買ってしまいました!
美濃攻略を進めたい織田信長は家臣の秀吉を使い、竹中半兵衛をどうにか織田軍に迎えようとしますが、首を縦にふろうとはしませんでした。
秀吉が三顧の礼を取り、織田信長直臣ではなく、秀吉配下でならとの条件で、迎えたのはよく知られたお話です。
中国三国志の中で劉備玄徳が公明の庵を三度訪れて「臥竜(がりょう・うずくまった竜)」といわれた公明を軍師にしたのは有名なお話です。
先生もそう思われておられるのでしょう?
しかしながら孔明は、元徳に「天下三分の計」の構想を授けて三国志時代を迎えるきっかけを作りましたね。
最後に一言
三木市民が「別所長治」をおらが殿様として、尊敬しているのは城の中に逃げ込んだ人々を助けるために自らが、犠牲になった事が大きいのかもしれませんね。
黒田勘兵衛と並んで両兵衛と呼ばれ、秀吉の天下取りにおおきな、貢献をした竹中半兵衛、出身の岐阜にも墓は有るようですが、時代情勢を考えると、ここに眠っておられるのではないでしょうか。
皆さんはどのように考えられますか?
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。