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節分の恵方巻はコンビニの策略だ~、日本人なら『豆まき』しようぜ!

今や全国的に広まった節分の「恵方巻」イベント、今年(2021年)の恵方は「南南」です。

元々は、元来関西の一部(大阪と兵庫県の一部)だけで行われていた行事でした。

この近畿圏の私が知らない、「恵方巻」の歴史を追いかけると共に「豆まき」をアジテイトします。

 

この近畿圏生まれ(兵庫県北部但馬生まれ)の私も子供の頃はまったく知りませんでしたし、実家ではそんな食べ方はしていませんでした。

同級生や同郷の妻も、子供時代は知らなかったとのことです。

兵庫県尼崎市(阪神間ですね!)の伯母の家では、私が小学生の40年以上前から、丸かぶりしていたのを記憶しています。

セブンイレブンの我がもの顔の垂れ幕です(セブンイレブンに悪意はありません)

 

調べてみるとどうやら、コンビニエンスストアが大きな役割を担っているようすなので、調査してみました。

そして、もう少しするとバレンタインデー!こちらも同じように業者の策略というのは、もうご存知ですよね。

 

本来の日本文化の「節分」とは一体何なのか、少し冷静になって考えてみましょう。

日本人なら日本の伝統文化を守って「豆まき」しようぜ!

市郎右衛門
もうすっかり定着した感じがする恵方巻ですが、皆さんはルーツを考えたことがありますか。
意外と新しいですし、調べるうちにコンビニの戦略だと分かって来ました。
バレンタインのチョコレートがモロゾフさんの戦略だということは皆さんご存知ですよね!
同じことが恵方巻にもいえるようです。
近年では、パン屋さんの恵方ロールサンドや、ケーキ屋さんの恵方ロールケーキも参戦して、売れ残りが問題になっています。

「恵方巻」はコンビニの策略だ!

「恵方巻」きの歴史とは?

「恵方巻」名前の歴史は1990年広島のセブンイレブンから始まりました。

「何を馬鹿なことを...」と思われる皆さんも多いと思います。

「子どもの頃から丸かぶりしてたぞ」とお叱りの、阪神間の年配の方々もおられるでしょう。

しかし、「恵方巻寿司」は1989年に広島で初めて発売されたのです。

「恵方巻」の名前自体がコンビニの発案?

 

我が家から一番近所のセブンイレブン

 

余談になりますが、子どもの頃コンビニといえば、関西はローソンでした。

「愛してます。みんなのローソン」というCMソングもありました(皆さん覚えてますか?)。

現在、我が兵庫県のコンビニ店舗数1位はセブンイレブン、2位はファミリーマート、ローソンは3位に後退しています。

つまり関西にもセブンイレブンの大波が押し寄せてきたのです。

 

本題に戻って調べてみると、「恵方巻」の名前自体がセブンイレブン(1990年)の発案でした。

元々は、関西圏でも「節分のり巻き」の名前だけだったようです。

 

皆さんはこの、海苔巻きにかぶり付いている姿、何か日本らしからぬお下品さを感じられた事はありませんか?

発祥に付いては幾つかの説が有る様ですが、江戸時代末期から明治時代初期、大阪の商人(ハッキリ「船場の商人」とする資料も存在します。)による商売繁盛の祈願事として始まったという説や、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴(初代松江城主)が偶然節分の前日に海苔巻きのような物(様な物って?)を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしているという説も有ります。

わかりますかね、明石海峡で養殖されている海苔の収穫場面です

 

ただし、板海苔の誕生は江戸時代であることから、この説の根拠の乏しさが指摘もされています(その他にも幾つか説は有るようです)。

起因として「厄落とし・縁起担ぎ」や「船場にある階段の中段で女性が太巻きを丸かじりして願い事をした」更には「船場の旦那衆のあそび」等が挙げられています。

遊女と巻寿司で遊ぶ?

しかし、私は最後の旦那遊び説を推奨します。

花街発祥の、「怪しげな風習」ですが、かつては商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです。

花街の遊女に海苔巻きをかぶり付かせて楽しんでいる旦那周の助平心が、このお下品な風習を広めたと考えると、納得しやすいのです(///∇///)。

豊原国周画 明治時代

 

あっ!貴方、今ソフトクリームを舐める女性を想像しましたね。

バナナやウィン…もうやめときましよう(-"-;A ...アセアセ。

 

とにかくそういう事だと思います。

なぜ、そんな風習が全国的に広まったのか?節分にその年の恵方を向いて巻き寿司に無言でかぶりつく、そうすれば幸せになったり願い事が叶うといわれ、毎年恒例の行事となりつつある「恵方巻」ですが、風習の由来は定かではありません。

あたかも伝統であるかのように「装われた」ものだとい考えられています。

 

いったいどういう経緯で、ここまでの広がりを見せたのか、恵方巻に詳しい民俗学者は分析しています。

熊本大准教授の岩崎竹彦さんは「とりあえず大阪の船場が発祥だということは確かでしょう」とBuzzFeed Newsの取材答えられています。

節分の巻き寿司(恵方巻)の研究者で、「フォークロリズムからみた節分の巻きずし」などの論文をお出しの先生です。

フォークロリズムとは、伝統的な民間伝承が、違う文脈で使われるようになることを指す言葉です。

 

「もともとは船場の旦那衆が、花街でやっていた遊びでしょうね」と話される、岩崎さんの調査によると、やはりかつて商家の旦那たちが、遊女と巻寿司を使った遊びを楽しんでいたのだそうです(どんな遊びかな?)。

平安時代の絵巻物や映画・ドラマなとでも扇で口を隠す姿を良く見かけます。

古くは、口を開ける(若しくは、口の中を見られる)ことは恥ずかしいことだったようです。

現代の様な歯科医院が無かった時代、虫歯等で歯が痛い時には、丸々抜いてしまう方法が取られていました。

ですから、お口の中はぼろぼろだったのかも知れません(恥ずかしい~・笑)。

 

ちなみに、中世のフランスでは虫歯になる事は甘いものを食べている(お金持ち・貴族など)証拠で、金銀の爪楊枝でシーシーするのがステータスだっと言われています。

「まるかぶり」がいつ頃から少しずつ、人々に浸透していったのでしょうか?明治末期の大阪で生きた人が残している回顧録などには、「家でそういうことをしていた」という記載もあるようです。

いずれせにせよ、恵方巻きの明確なルーツは不明なのです。

近畿地方の一部に広がっていた風習であり、「伝統行事」と言えるまでではなかったのです。

大阪鮓商組合が商売に利用?

戦前から始まった遊女遊びのまるかぶり巻寿司でしたが、こうした「怪しげな風習」にそれらしさを付与したのが、ある商業キャンペーンでした。

前出の岩崎さんは、研究の過程で巻寿司に関するビラを収集しておられます。

 

発見した一番古いものは、昭和7年(1932年)に大阪鮓(すし)商組合後援会が発行したものだそうです。

これは、太巻きを自ら広めた大阪鮓商組合後援会事務局長も、認めておられるようなので、信憑性が高いですね!

太巻は七福にちなんで、7つの具を入れて巻くのが基本になったようです。

「幸運巻寿司」をPRするためのビラには、こんな内容が書かれています。

この流行は古くから花柳界にもて囃されていました。それが最近一般的に宣伝して年越には必ず豆を年齢の数だけ食べるように巻寿司が食べられています。これは節分の日に限るもので、その年の恵方に向いて無言で一本の巻き寿司を丸かぶりすればその年は幸運に恵まれるということであります。宣伝せずとも誰言うともなしに行ってきたことを考えると、やはり一概に迷信として軽々しく片付けるべきではないかも知れません。

出典:大阪鮓商組合後援会書類

いま、私たちが知っている「恵方巻」そのものですね。

ここでも「花柳界」(遊郭など)に原点があるとされています(豆を年の数だけ食べることも無くなって来ました)。

セブンイレブンでお豆を購入するとお面もつけてくれました

 

次に古いのは、1940年(昭和15)年に同じ組合が発行しているものです。

そこに書かれている内容は、次のようなものです。

巳の日に巳寿司と言うてお寿司を喰べるように、毎年節分の日にその年の恵方に向かって巻寿司の丸かぶりをすると大変幸運に恵まれるという習わしが、昔からの行事の一つとなって年々盛んになってきています。

出典:大阪鮓商組合後援会書類

「習わし」「昔からの行事」としつつ、その由来には一切触れられていません。

花柳という言葉が消えているのは、時勢として良くないとの判断があったのかもしれません。

 

この年は「皇紀2600年」の節目でした。

戦時でもあり、国威高揚に熱心だったご時世でした。

「大変幸運に恵まれる」ことは、消費者が待ち望んでいたことでした。

 

いずれにせよ、恵方巻と同じような風習は、戦前から寿司屋のマーケティングに活用されていたのです。

戦火が激しくなるうちに中断していたこのマーケティング手法は、終戦から4年後には再開していたようです。

その後、高度経済成長期に突き進む日本で、この「風習」を利用したのが、スーパーマーケットとコンビニエンスストアでした。

全国展開の基礎をスーパーがつくり、結実させたのはコンビニエンスストアです。

 

1970年代後半から、大阪の海苔組合や厚焼工業組合(厚焼き玉子の組合)などがビラを発行し始めます。

大手のスーパーマーケットから依頼されたものもあったといわれます。

ただ、どれも「昔の言い伝え」などと記している物でした。

 

一方の鮓組合は、風習の起源を明確に示したビラを発行しています。

いつからかは不明ですが、1990年のものにはこう記載されています。

江戸時代の末期若しくは明治の始め頃から大阪の中心地、船場が発祥地とされております。商売繁盛、無病息災、家内円満を願ったのが事の始りです。一説には若い女性の願いである好きな人と一緒になりたいという祈りから広く普及したとも伝えられております。

出典:大阪鮓商組合後援会書類

岩崎さんは前出の論文の中で、こう指摘されています。

鮓組合のコピーによって昔からの言い伝えに根拠が与えられ、いわば怪しげで不可思議な風習が本物となった、あるいは本物であることの装いができあがった、と考えられます。

出典:BuzzFeed News

こうして作られた「風習」はスーパーマーケットの折り込みチラシやチェーン店の寿司屋(小僧寿し?)、コンビニエンスストアによって広がりを持つようになっていきます。

さらに、バブル期には巻き寿司がどんどん豪勢になっていきました。

マグロやカニやイクラを入れて、値段もどんどん高額になっていきました。

 

一方のバブル崩壊後は、社寺で祈祷を受けたノリを使ってプレミアをつけていたようです(私が食べたのも源平合戦でご紹介した須磨寺のお札月でした)。

その頃はリストラの嵐でしたから、国民みんな大変な思いをしていると言うことで、祈りをキーワードに巻寿司も販売させようとした、業界の苦労が感じられます。

「恵方巻」を全国に展開させたのはセブンイレブンだった!

それでも、昭和60年代や平成の初め頃ではまだ全国に浸透しているとは言い切れない状況でした。

そんな中、チェーン店として初めて「恵方巻」という言葉を用いて全国展開を図ったのが、セブンイレブンです。

今年のセブンイレブン恵方巻き三部作

 

セブン&アイホールディングの広報担当者は、BuzzFeed Newsの取材にこう語っています。

「1989年に広島県の一部店舗で『太巻きを節分にどうぞ』と売り出してみたのが始まりです。2月は催事が節分しかなく、関西出身のオーナーが関西では節分に太巻きを食べるという風習があることに目をつけて、おすすめしてみたそうです。」

出典:BuzzFeed News

 

オーナーの目論見は見事に功を奏し、そのまま展開が広がりをみせます。

全国展開が始まったは、1998年のことで、売り上げは年々増加していました。

2016年は、664万本が販売されました(セブン&アイホールディング調べ)。

 

ここまでくれば、「怪しげな風習」だった恵方巻は、もはや新たな「伝統」と言えるのではないでしょうか?

北海道や沖縄には最近になってようやく風習が広がり始めたようです。

特に沖縄はもともと節分行事がありませんでしたから、スーパーマーケットがどんどん宣伝をしている段階です。

 

ほぼ全国制覇は完結しそうな勢いですが、まだ本来の意味で伝統文化と言えるかは微妙かもしれません。

間違いなく、将来的には伝統になるでしょう。

ちなみに、今年の恵方は冒頭でもお教えしたように「東北東」です。

関係な所で申し訳なにのですが、柊はわりとどこにでももあるので探してみてください

 

一方で、パン屋業界(恵方パンロ-ルサンド?)や、お菓子業界(恵方ロールケーキ)も参入したことで、売れ残った巻きずしが大量に廃棄されるという悲しい現実もあります。

昨日、セブンイレブンに恵方巻を購入に行ったところ、太巻き(八品目の恵方巻)は予約注文だけとなっていました(大量廃棄に配慮したのかも?)。

さとね
先生もコンビニ行くんですね~^^
ついついスイーツ余計に購入してしまうんですよね!
何処にでもあるから便利ですけど、飲み物が定価だったりして意外とお金使っちゃうんですよ~~w
さとね的には、今はファミマかな?スイーツが一番充実してると思いま~~す。

市郎右衛門
ん~~~?
そういえばコンビニ行ったの久しぶりだったね!これもフィールドワークだともいえないことは無いかな(笑)
さとね君はスイーツの充実せいでコンビニを決めているのかい?
ちなみに、セブンイレブン日本店は、昭和49年(1974年)5月15日、東京都江東区に第1号店「豊洲店」が出展されたんだ!
元々アメリカの氷屋さんだったんですよ!

節分に大事なのは「豆まき」「恵方巻」のどっちだ?

そもそも節分て何?

節分(せつぶん・せちぶん)は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことです。

節分とは「季節を分ける」ことも意味しており、江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多ようです。

太陰太陽暦(旧暦)では、立春に最も近い新月を元日とし、月(太陰)の満ち欠けを基準(月切)にした元日(旧正月)と、太陽黄経を基準(節切)にした立春は、ともに新年ととらえられていました。

 

したがって、旧暦12月末日(大晦日)と立春前日の節分は、ともに年越しの日と意識されていたことになります。

今も節分を「年越し」「年取り(数え年とは、生まれた日を1歳とし、誕生日に関係なく新年に皆が年を取る数え方)」と呼ぶ地域(習慣)があるのはこの名残です。

スーパーで購入した豆まきセット(鬼の面付・昨年度)

 

一般的には「鬼は外、福は内」と声を出しながら福豆(煎り大豆)を撒いて、年齢の数だけ(もしくは1つ多く)豆を食べる厄除けを行います。

また、邪気除けの柊鰯などを飾る風習が残っています(寺社や地方によって違いがあるようです)。

今年我が家の恵方巻寿司はこれだ!

 

次女が簡易方位磁石を作ってくれました

 

私が食べるのは上の金粉入特選金運七福巻「須磨寺」の護摩祈祷海苔巻き!さらに極運海鮮巻

 

普通?のこだわり特上巻き寿司とアレルギーのある次女には細鉄火巻き2本!

 

「須磨寺」は福禄寿ですね

 

具は七種類、神戸七福神ゆかりのありがたい具材の様です。

鰯と柊忘れるべからず!

 

柊は街路樹から拝借

 

結婚してから毎年我が家でも、恵方巻(私は当然海鮮巻ですが・笑)を買って黙って黙々と恵方にむかって食べております。

近頃日本古来からの風習である、豆まきやイワシとヒイラギの魔除けの方を大切にしなければ行けないと感じています(反省材料ですね)。

豆まきしよう!

豆まきの歴史は、宇多天皇(うだてんのう・在位887~897)の時代に、鞍馬山の鬼(朝廷に、まつろわない民の総称?土蜘蛛等)が出て来て都を荒らしたので、祈祷で鬼の穴?を封さぎ、三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちふさぎ、災厄を逃れたという故事伝説が始まりといわれています。

豆まきを始められた宇多天皇

 

豆まきは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。

炒る」は「射る」にも通じ、また、鬼や大豆は陰陽五行説(「木」「火」「土」「金」「水」の五行)の「金」にあたり、この「金」の作用を滅するといわれる「火」で大豆を炒ることで、鬼を封じ込めるという意味があります。

そして最後は、豆を人間が食べてしまうことにより、鬼を退治した、ということになるわけです。

一昨年の鰯・柊はスーパーでお持ち帰り自由でした。

 

柊と鰯は、柊の尖った葉に魔除け意味合いがあるようですし、鰯に付いては鬼は生ぐささが嫌いみたいです(ニンニク嫌いのバンパイアか!(;^_^A)。

市郎右衛門
毎年家族で恵方巻を食べているにもかかわらず、批判めいたことを書いているのだけれど、私が言いたいのは新しい風習ができるのは歓迎するが、古い風習も忘れずにいてくださいねということなんです、
流行りに飛びつくのは日本人らしいともいえますが、豆まきや柊と鰯の魔除けも忘れちゃダメだよってこと。
先生が子どもの頃はご近所から「鬼は~外・福は~内」と子供たちの声が聞こえたものです。

さとね
都会でやるとはずいですよね(-"-;A ...アセアセ
黙って食事をする昔の仏教思想からしたら、恵方を向いて無言で食事するのもひとつの教育につながりませんかね?
だってうちの妹もTV見ながら食べてるし、家族の会話もないですもん。

なぜ鬼のパンツは虎がらか?

鬼門のうんちく!

鬼といえば、何か思いだしませんか?そう鬼門ですよね。

鬼門は丑寅の方角(鬼は牛(「丑」の角が生えていて、虎「寅」のパンツルックなのがご理解頂けましたか?)ですね。

「鬼のパンツはトラトラパンツ~」って歌ありましたよね?

 

京都御所(平安京)は(鬼門封じとして比叡山延暦寺を作ったにも関わらず)北東が削られて、鬼に角が立たないように造ってあるんですよ。

知っておられましたでしょうか、一昨年京都御所の鬼門写真が無くて、翌日京都御所の鬼門だけ撮影に行った私は、Bloggerの鏡です。

自分で言うか~!Σ(×_×;)!)?

京都御所の鬼門、角がへこんでいます(猿が辻・むこう側に夜になると抜け出す猿が隠れています)

 

おりに閉じ込められた、京都御所「猿が辻」の猿

地方によって掛け声が変わる?

豆まきの掛け声にも地域性は有るようで、我が家の近く三田市(みたではなくて「さんだ」では掛け声が江戸時代から変化しています。

東京の三田市(みた)と混同されるので、サンダクロースの合言葉を地域振興に役立てています(ちょっぴり、無理ないかな?)。

戦国武将九鬼氏(九鬼水軍で有名!)の城下町なので、旧市街地では、「福は~内」「鬼も~内」だそうです(成る程ですね!)。

市郎右衛門
上で出た京都御所の鬼門の角を猿が辻といいます。
本当にお猿さんが鬼門を護ってるんですよ。
しかしながら、このお猿さんはいたずら好きで、時々逃げて京都の町中で悪さをするので金網で囲って逃げないようにしてあります。
なぜ鬼門(北東)の守に猿がいるかというと、反対方角南西は申(さる)になるからかな?相反する物というわけかも?
ちなみに、桃太郎の鬼退治の御供も、申(さる)酉(とり)戌(いぬ)でしたね。

さとね
成る程、桃太郎の鬼退治にも方角が関係しているんですね?
歴史や文化って不思議なことが多いですよね~^^
もっともっと勉強頑張ります~~~~!
そういえば、岡山の吉備団子大好きなんです。
次のフイールドワークは岡山にしませんか?桃太郎に会いたいです~w

最後に一言

昨年には、子供たちが私の書斎にも豆をまいてくれました。

昔は普通に豆をまいていましたが、今は袋入りの豆(圧力で揚焼きしてあるのか、柔らかくて食べやすい)ですね、風情は無くなったけど、これも時代ですか!

 

伝統文化は当然ですが、少しずつ変化していきます。

これは今に始まった事では無いと思いますが、たとえ形は変わっても、日本人として伝えて行かなければいけない文化も有ると思います。

 

勿論!「恵方巻」も良いですが、古来の豆まきも是非行って文化を引き継いで頂きたいです。

歴史は今回も、私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれました。

改めて日本古来の伝統文化に敬意を表する「市郎右衛門」です。

市郎右衛門
何千年間も変わらない文化はそうあるものではありません。
だからこそ、古くから残った素晴らしい日本の伝統文化は継承していかなければならないと考えています。
七草粥のブログでも申し上げたかもしれませんが、伝統を放棄することは自分自身のアイデンティティを崩壊させてしまうことに繋がると考えています。
北海道のブログ友達の皆さん、南京豆投げて節分に鬼を(寒波という鬼を)追い払ってくださいね~~w
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いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

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|o´艸)。oO(Thank you)。

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