
1300年の時を越え、今も多くの人が踏みしめる巡礼の道、幸せを願い心に安らぎを求めるとき、人はなぜこの旅路を選ぶのでしょうか。
西国三十三観音巡礼祈りの旅、「応頂山・勝尾寺(かつおうじ)」今日はしみじみとご紹介したいと思います。
「勝尾寺」は勝ち達磨の寺と呼ばれます。
奉納されている達磨はすべて両目が入っていますよね、賢明な皆さんならもうお分かりですよね、そう念願が叶った達磨ばかりなのです。(笑)
お寺巡りとどう違うの?といわれそうですが、人気のある西国三十三観音霊場を分けるこことにしました。
まだはんぶんを少し過ぎたくらいの取材率ですが、戦国武将や、聖徳太子などの有名人開山やご由緒のお寺が多くありますし、満願するのを楽しみにされる方も多いと思います。
出来る限りの取材で見どころを解説しますので、楽しみにしてください。
勝尾寺ってどんなお寺
勝尾寺は、大阪府箕面市にある高野山真言宗の寺院です。
西国三十三観音霊場の中では、現在の私の職場から一番近く、通勤道路的には宝塚の二十四番札所「中山寺」と同じくらいに近くです。
昨夜下調べしていて、西国街道沿いに大鳥居が有る事を知って撮影してきました。(笑)
平安時代に成和天皇(第56代天皇)に寺号を賜っています。
西国三十三観音霊場の第二十三番札所。
開山は開成皇子(かいじょうおうじ)、本尊は十一面千手観世音菩薩です。
寺号は「かつおじ」「かちおじ」などとも読まれるようです。
勝尾寺の所在地は大阪府箕面市粟生間谷にあります。
山号「応頂山」、宗派高野山真言宗、創建年は伝・神亀四年(727年)開基伝・善仲、善算、開成(開山)中興は源頼朝で正式名名称の「応頂山勝尾寺」を名づけています。
元は別称の「弥勒寺」と呼ばれていたようですね。
【アクセス】
- 北大阪急行 千里中央駅から タクシー約20分
- 阪急 北千里駅から タクシー約15分
- 阪急 箕面駅から タクシー約15分
- 大阪モノレール 彩都西駅から タクシー約10分
西国霊場以外の札所としては?
法然上人二十五霊場6番札所(二階堂)
摂津国八十八箇所54番札所
摂津国三十三箇所22番札所
神仏霊場巡拝の道第65番札所
文化財のご紹介
法華経 巻第四(重要文化財)
木造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財)ほかにもたくさんのお宝があります。
またどこかひとりで、取材に行ってたんじゃないですよね~!
私なんか春休みなのに毎日バイトで大変なんですからね、フィールドワークに行くときは、出来るだけ先に行っといてもらわないと、バイト休めませんからね。
勝尾寺の歴史!
勝尾寺の草創・伝承・経緯!
奈良時代の神亀4年(727年)、藤原致房の子の善仲、善算の兄弟は北摂の地に草庵を築き、仏道修行に励んでいました。
それから約40年後の天平神護元年(765年)、光仁天皇の皇子である開成皇子が二人に師事して入門しました。
宝亀8年(777年)、開成皇子は念願であった大般若経600巻の書写を終え、勝尾寺の前身である弥勒寺を創建しています。
そして、観音様の化身といわれた「妙観」が18人の弟子と数年後の宝亀11年に(780年の7月18日に発願し8月18日に結願奉納されました。)、十一面千手観世音菩薩立像を制作したと伝えられています。
毎月18日は観音御縁日(結願奉納日)とされ御本尊を拝むことが出来ます。
妙観は勝尾寺の観音像を彫った名工です。
『徒然草』二二九段に「よき細工は少しにぶき刀を使ふといふ。妙観が刀は、いたく立たず。」とあります。
名工は少し鈍い刀を使う、名工・妙観の刀は、ひどくは突き立たない(あまり鋭くない)。
これが鋭くなくても良い仏像を作るなのか?、鋭くないからこそ柔らかな優しいい仏像が作れるの意味なのかは、皆さんがお考え下さい。
開成皇子って誰?
開成皇子、神亀元年(724年)~天応元年10月4日(781年10月29日)は、奈良時代の僧侶です。
父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄(異母兄)にあたります。
765年(天平神護元年)宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。
両師の発願した大般若経書写の遺志を継ぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたといわれます。
勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺と号したと言われます。
開成皇子の僧としての事績については正史に記載がなく不明な点も多いですが、北摂地域の山間部には当寺以外にも高槻市の神峯山寺など、開成の開基または中興とされる寺院が点在しています。
勉強不足だったのですが、勝尾寺から山道に入って標高差約130mを登りますと、開成皇子墓のある最勝ヶ峰が有ります。
天応元年(781年)に58歳で没し、(現・大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内)に葬られました。
墓は現在「開成皇子墓」として宮内庁管理となっています(上のZENRIN地図でお確かめください)。
勝尾寺の歴史色々!
勝尾寺は平安時代以降、北摂山岳信仰の拠点として栄え、天皇など貴人の参詣も多かったといわれています。
元慶4年(880年)、当時の住職行巡が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、「勝王寺(現在も寺門の額には勝王寺の名前が有ります)」の寺号を賜りますが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして勝尾寺に差し控えたと言われます(上の山門裏の写真でお確かめください)。
『日本三代実録』は、元慶4年、清和天皇死去についての記事で、同天皇が「勝尾山」に参詣したことを述べており、これが勝尾寺の文献上の初見と成っています。
私が、撮影した西国街道の表参道の起点となる大鳥居の扁額は清和天皇の直額です。
当時の神仏は一体化していました。
そこから勅使門まで約4キロの山道です。
しかしながら、元暦元年(1184年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷の戦いのあおりで焼失してしまいました。
文治4年(1188年)、源頼朝の命により、熊谷直実・梶原景時によって再建されました。
本堂東側には、二階堂が有り、承元4年(1210年)には晩年の、讃岐国流罪から戻った浄土宗の開祖法然が最後の修行の場として4年間当寺に滞在して浄土信仰を開眼したと言われています。
山岳信仰の拠点だった広大な山に旧境内牓示八天石蔵及び町石が有るそうです。
中世、勝尾寺が寺領を明示し、土地をめぐる争いを避けるため、寺の周囲8箇所に設置したもので、四天王・四明王の像を埋納していました(確認できませんでした)。
寺院散策!
授与所の大小の達磨に違いはありません。
勝ち達磨はただ授かればご利益を受けられるものではありません。
勝ち達磨はあなたを写す鏡です。
成就したいと思う事柄に少しでも近づこうと日々努力しているか、またご両親をはじめ、先祖様や周囲の人々への感謝を忘れず自身の命を懸命に生きているのか?
勝ち達磨が一番良く見ているのです。
やっぱり一人でいい所に行こうと画策してたんですね~!
今週の木曜日?あ~~~バイトの予定が入ってる。
もう!お土産頼みますよ~大判焼きお願いします。
え?あんこが好きだからいいって?
そういえば、さとね君は甘いものはよく知ってるよね...
それくらい勉強に力を入れてくれるとありがたいんだけどな~(笑)
最後に一言
御詠歌:重くとも 罪には法(のり)の 勝尾寺(かちおでら) ほとけを頼む 身こそやすけれ
意味は、例え重い罪であろうとも、仏法の救いはそれに勝るものであるから、仏に帰依してこそ安らぎが得られるです。
私は、願うのでは達磨の目は開かないと感じています。
自身の行動と努力によって、達磨の目を開かせることができるのです。
復習しますよ、西国三十三観音霊場では、番外の東光山「花山院・菩提寺」と一番札所の「那智山・青岸渡寺」をお送りしました。
関連リンクで貼っておきますので、ご覧ください。
新しい西国三十三観音霊場シリーズもよろしくお願いします。
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|o´艸)。oO(Thank you)。