
西国三十三観音霊場巡りの企画シリーズを始めます。
西国三十三観音霊場番外「花山院菩提寺」を紹介するとともに、西国三十三観音霊場中興の祖「花山天皇(かざんてんのう」のお話をいたします。
一番札所「青岸渡寺(せいがんとじ)」からとも考えましたが、我が家に一番近い、西国三十三観音霊場番外「花山院菩提寺」を最初に紹介します。
まず「花山天皇(法皇)」のお話から始めます。

今日早起きして撮影「阿吽の仁王」様が良いですね!
花山天皇は安和2年(969年)、叔父「円融天皇」の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位します。
生後10ヶ月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父藤原伊尹(ふじわらの これただ/これまさ)の威光によるものだと考えられますが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことが、2年足らずの短い在位という結果を招いたと考えられます。
関白には先代に引き続いて藤原頼忠(ふじわらの よりただ)が着任しましたが、実権を握ったのは、帝の外舅藤原義懐(ふじわらの よしちか)と乳母子藤原惟成(ふじわらの これしげ/これなり)でした。
義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行いましたが、ほどなくして天皇が退位したのに殉じて遁世(とんせい・隠居すること)します。
かく言う私も四国バスツアーで最初の8寺は巡っているのですが…
西国三十三観音霊場巡りはシリーズ化して全三十三寺院と別番外三寺院(番外寺院については諸説あるようです)を全てご紹介していきたいと考えています。
ただまだ半分程度しか巡られていないので、不定期連載になると思いますのがお許し下さい。
目次
「花山天皇」宮中を抜けだして出家する
哀愁の花山天皇
「哀愁の花山天皇」と書いたのは悲しい裏切りに合われて帝を退位されたからです。
寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位されます。
突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御「藤原忯子(ふじわらの しし/よしこ)」が妊娠中に死亡したことが原因とされていますが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えています(平安期の宮中のドロドロは怖いですね~)。
蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から華頂山元慶寺(花山寺、三十三観音霊場番外)に連れ出そうとします。
このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのが、兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちでした。
天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしいなぁ。」と言って出発をためらいますが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ。」と自身を諭したとされます。
しかし内裏を出る直前にかつて妻から貰った手紙が自室に残したままであることを思いだし、取りに帰ろうとしますが、出家を極秘に行いたかった兼家が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出られます。
余談ですが、『大鏡』文章の中に陰陽師「安倍晴明」の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに...式神一人、内裏へ参れ!」と言う声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて一行を目撃し「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたとあります。
花山天皇と安倍晴明の逸話は晴明神社のホームページにも記されており、花山の頭痛を法力で治した話などが記載されています。

「五芒星」がシンボルマーク京都「晴明神社」
元慶寺へ着き、天皇落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知ります。
内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこでともども出家したと伝えられます。
この事件は「寛和の変」とも称されています。
大鏡って何
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語です。
紀伝体とは個人に関しての情報がまとめて紹介され、「本紀」と「列伝」に由来します。
年代に沿った記述はなされていませんが、個人情報が豊富なことが特長です。
『大鏡』の概要
『大鏡』はいわゆる「四鏡(『大鏡』・『今鏡』・『水鏡』・『増鏡』の4つの歴史書)」の最初の作品であり、内容的には2番目に古い時代を扱っています。
非凡な歴史観がうかがえる問答体の書で、三巻本・六巻本・八巻本があります。
書名の『大鏡』とは、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」の意味をあらわしています。
古くは他の呼び方として、世継物語・世継の翁が物語・世継のかがみの巻・摩訶大円鏡とも称されているので、原作者の付けた書名は無かったものと考えられています。
作者は不詳ですが、摂関家やその縁戚の村上源氏に近い男性官人説が有力です。
作者については諸説あり、藤原為業・藤原能信・藤原資国・源道方・源経信・源俊明・源俊房・源顕房・源雅定らの名前が挙げられていますが、近年では村上源氏の源顕房とする説がやや有力とされています。
『大鏡』の内容について
文徳天皇即位から後一条天皇の万寿2年(1025年)に至るまで14代176年間の宮廷の歴史が記されています。
藤原北家、ことに藤原道長の栄華を軸にして、大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という長命な二人の老人が雲林院の菩提講で語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれています。

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」道長
和語(大和言葉)に漢語・仏教用語を交えて書かれており、簡潔でありながら劇的な表現が豊富に用いられます。
藤原兼通・兼家兄弟の権力争いや藤原道兼が花山天皇を欺いて出家させる場面では権力者の個性的な人物像や謀略が活写されており特にドラスティックに描かれています。
そこには飽くなき権力欲への皮肉も垣間見えるようです。
また、結末の後に増補された折に「二の舞の翁の物語」などと称される後日談が書かれています。
これについては「皇后宮大夫」が書いたとされていることから、増補されたと考えられる時期に同職を務めた源雅定(あるいは前任の藤原家忠)が増補者であろうと推測されています。
ちなみに、大宅世継は作中で自分は清和天皇が退位した年の1月15日生まれだと発言しており、彼の生年月日は貞観18年1月15日(ユリウス暦876年2月13日)ということになります。
古文は、高校時代にもっと勉強しとけばよかったです。
安倍晴明さんは知ってますよ映画ありましたし、漫画も読みました。
「式神」って本当にいたんですかね~?私霊感強い方ですけど...
先生はいつもストーリーを大事にしなさいって言ってますけど、ユリウス暦なんか時々持ち出して、しっかり時代特定しますよね~~w
文化も爛熟すること間違いなしという所ですか?
少し意地悪な質問してみましょう、平安京時代はいつまで続いたでしょうか?
Answer:明治維新で東京に明治天皇が移られるまでです(時代は移れど都は京都にあったんですね~w)。
西国三十三カ所観音霊場巡りの由来
さて、私も巡っている、西国三十三観音霊場札所巡礼、ご利益もさることながら歴史的にも面白い場所が目白押しです。
是非とも、皆さんにもお参りしていただきたいのですが、まずは由来をご紹介します。
養老2年(718年)、大和国長谷寺の開山「徳道上人」が病にて仮死状態になられた際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受けます。
「徳道上人」は起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、及びその霊場へ参ることをすすめられました。

「長谷寺」山門、発起院もすぐ傍にあります
徳道上人が極楽往生の通行証となる宝印をお配りになったという場所は、観音菩薩が衆生を救うために示現された霊験所や寺院でした。
上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが、世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の「石の唐戸」の中に納めました。
そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていきます。
徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇が紀州国の那智山で参籠(修行)していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けます。

宝塚「中山寺」の古墳「誰か影絵やってますね」笑?

三十三の宝印が封印さていた「石の唐戸」?
花山法皇は、988年(永延2年)観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)で宝印を探し出します。
その後、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたといわれています。
このことにより、やがて観音霊場を巡る西国三十三所という信仰となり、西国三十三所は日本最古にして、巡礼の元祖となりました。
この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっています。
花山法皇は、寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られています。
先日、播磨国(現姫路市)の書写山「圓教寺」に外国人が大挙お参りに来ているというTVを見ました。
トムクルーズの「ラストサムライ」の撮影に使われた場所だからだそうですが、日本の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも使われていましたし、映画「関ヶ原」でも家康の円山陣として使われていました。
書写山「圓教寺」は西国三十三観音霊場に二十七番札所に成ります(参考まで!)。
トムクルーズ様...ミッションインポッシブル大好きです。
昨年公開の「フォールアウト」まで全6作全て見てま~~~す。
書写山「圓教寺」行きたい、そんなに遠くないじゃないですか、連れて行ってくださいね。
そういえばトムクルーズ様、先生と同い年ですよね?全然違う~~w
西国三十三所巡礼の番外霊場東光山「花山院菩提寺」
「花山院菩提寺」はどんなお寺?
さて少し予習しましたので、私の家から近い西国三十三所巡礼の番外霊場を紹介します。
御廟所がある、東光山「花山院菩提寺(かざんいんぼだいじ)」です。

西国開山 花山院御廟所 とありますが、亡くなったのは京都で墓所も京都にあります
私の西国西国三十三所巡礼納教帳の最初の御朱印は此方でした(番外から巡る人はそんなにいないかもしれません)。
花山院菩提寺は、兵庫県三田市尼寺にある真言宗花山院派の寺院です。
大阪・神戸のベッドタウン三田市中心部から北方へ約6キロの東光山上(標高約400m)に位置しています。
交通アクセスは、JR三田駅からバスで20分(母子・乙原バレイ行き、「花山院」バス停) 「花山院」バス停から徒歩で15分 (山登り覚悟してください)。
マイカーなら神戸三田ICから車で25分程です。
本尊は薬師瑠璃光如来、開基(創立者)は法道仙人(天竺から紫雲に乗って飛来したとされる伝説的な人物です)と伝えられます。
法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「天竺から紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できません。
正暦3年(992年)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、播磨清水寺(三十三の観音霊場を二十五番札所)に登った際に東方の山上が光り輝くのを見て訪ねて隠棲の地とし、その後晩年に帰京するまでの約14年間を過ごされました。
これに因んで元は紫雲山観音寺の名であったお寺を東光山「花山院菩提寺」と呼ぶようになったと言います。

紅葉に生える「本堂」

紅葉の美しい時期でした「宿坊」の方へ向かうと...

左にうっすら見えるのが六甲山、瀬戸内海まで見渡せます「御詠歌」に登場する有間富士も見えますね!
11世紀には多田荘を本拠とした多田源氏が帰依し、山内に堂塔が立ち並んで勢威を示しましたが、後の雷火で焼失しています。
現在は山内から出土する礎石群が当時を偲ばせます。

この紅葉の色合いは自然でなければ無理ですかね

本堂として建てられた「花山法皇殿」

西国三十三観音霊場は専用の納経帳があります
花山法皇の御廟所
最後に花山法皇の御廟所(お墓の意味もありますが、霊を祭ると捉えることもあります)があります。

花山法皇の御廟所へ

供養塔ということになりますか?
実際(宮内庁指定)の墓所は京都にあるので供養塔ということになりますか?
落涙の法皇と十一人の女官
東光山「花山院菩提寺」を含む山麓の集落は尼寺(にんじ)と呼ばれます。
これは法皇付きの女官11名が法皇寵愛の弘徽殿の女御(「源氏物語」では本名のわからない架空の皇妃の便宜上の名称ですが「大鏡」では、前出の藤原忯子だと思われます」の位牌を奉じて訪ねて来たものの、女人禁制故に登山を許されなかった為、草庵を結び尼となって麓に住み着いたことに因みます。
山中で修行する法皇に聞かせたいと登り口の坂で琴を弾いたことから、参道の坂は琴弾坂と呼ばれ、石碑も有ります。
これに対して、法皇は笙を持って応じられたとか、これも涙無くしては語れない伝承ですね。

琴弾坂の石碑
東光山麓の尼寺の集落の中に十二の石塔が残されています。
中央の五輪塔は弘徽殿女御「藤原忯子」のもので、周囲の十一基の石塔とあわせて十二妃の墓と呼ばれます。

十二妃の墓説明板

小高い古墳(古い墓という意味では古墳ですが)のような場所です。

しっかり十二基あります 中央の大きい五輪塔が弘徽殿女御ですかね
涙を誘うお話ですが、これほど慕われた花山法皇、現代人の私にはうらやましいですね。
しかしながら、14年間滞在の後花山法皇は京都に帰られた様ですが、女御たちはそれにはついては行かなかったのかな?
弘徽殿女御のお墓をお守りしたのかもしれません。
11人の女官のお話はとても悲しいお話でした。
ストイックな男性はやはりモテモテなのかしら?「花山法皇」様お若いし、イケメンだったのかな?
気になる~~w
君はある意味で、天才的な歴史家になれるかもしれないね。
私が言った「歴史をストーリーで楽しむ」を一番体現しているのは君かも知れないと思えて来たヨ!
このままの調子で勉強を進めば『優』間違いなしかな...(笑)
最後に一言
権力争いに明け暮れる、宮中を嫌って純粋に仏法の救いを民衆のために広めた花山法皇の姿は皆さんの目にどう映ったでしょう。
修行を積んで大きな法力をえた花山法皇の足跡はいまもなお人々の心を打ってやみません。
いかがでしたか?御朱印(お寺は納経帳なので納経印に成りますか)も公開しています。
御朱印集めに関しては、またゆっくりとご説明したいと思います。
平安期も長い上に、登場人物の「氏」がほとんど藤原さんだったりと、わかりにくい時代だと感じています。
だからこそ、お寺を巡る巡礼という別角度から歴史の面白さを、ご理解してもらえましたら幸せです。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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