スポンサーリンク

皆さんこんにちは~「市郎右衛門」です。

新しいブログを公開いたします。

ブログの題名の通りに99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」を皆様に楽しんでいただければと思います。

さて最初に読んでいただきたいのは【永久保存版】歴史を120%楽しむための6つのルールと題したブログ前編①~③、後編④~⑥です。

歴史に詳しくない方々にも、「高天原の縁側日記」を楽しんでいただけるように、歴史を好きになって楽しむ方法の指南をさせていただきます。

 

まずは、私の大好きな歴史や文化を、皆様に面白く理解していただくために6つのルールをご紹介いたしましょう。

これからお話する6つのルールを心に留めて、歴史の学習や古墳・神社・お寺・城や史跡旅行などに出かけるさいの参考にしていただけましたら、新しい視点で歴史を楽しむことができると確信しております。

 

なぜ100%ではないのだとお思われるかもしれませんが、そこは日本人ならではの「謙譲の美徳」です。

100%では、糊しろがないのでこれ以上面白いブログを書くことができなくなってしまいますよね~(笑)

 

ここで示した6つのルールを実行すれば、99%の方々は必ず歴史が好きになりますし(爆)、歴史を通して自身の未来への道も間違えずに進むことができます。

是非ブックマークして頂いて、このページから楽しい歴史(過去の教訓の旅路へ)へ旅だって頂けましたら幸せに思います。

 

それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

スポンサーリンク

①最初のルール「定説・通説」は信じるな!

 

最初のルールは「通説・定説」は信じるな!です。

皆さんは邪馬台国がどこにあったとお考えですか?

邪馬台国は九州に決まっとるばい」と思われている方もおられるでしょう。

いやいや「大和=邪馬台国、奈良に決まってるやんか」とお考えのかたもいらっしゃるでしょう。

纒向の地「箸墓古墳」

 

先日奈良県の纒向遺跡を訪ねた私は、簡単に大和説に変更してしまいました。(笑)

私がフィールドワークを大切にしているのには、やはり自分の目で見て、感じたことが自分の中の確信を強く前に押し出す力になるからです。

 

皆さんも是非自分の五感をフルに使って、歴史の謎解きに挑戦してみませんか?

歴史書で読んだ「通説・定説」は確かに成る程~!と納得させられますが、「百聞は一見にしかず」の言葉の通り自分の足で歩いた印象は、読書の100倍イメージをつかむ指標となることは間違いありません。

邪馬台国九州説・畿内説、当然どちらかの学者は嘘つきだ!

私「市郎右衛門」はもちろんワンパク坊主でした。

御多分に漏れず、野山を走り回り、昆虫や魚とりに夢中でした。

勉強は意外に得意でしたが(笑)、標本石を拾いに行ったり、化石を探したりと自然が大好きな少年「市郎右衛門」が、一番夢中になったのが土器拾いです。

実は、小学校が但馬国分寺跡のすぐそばに位置していた関係で、発掘作業の現場に遭遇することがたびたびあったのです。

田んぼの地下3m位から発掘された瓦や木片は、子ども心に「黄金のお宝」のように感じられました。

 

先日も実家に帰省したので、童心に帰って「秘密のお宝」が眠る山野に45年ぶりに土器拾いに行って来ました。

当時、葡萄畑だった農地は今は草地に変わっていましたが、ほんの10分も探すとそれらしき「土師器」のかけらがいくつか出て来ました。

小学校卒業時の私の将来の夢は「歴史学者に成りたい」でした。

現在、なぜか理系の大学を11年間もかかって(留年5回の大学記録ホルダー)卒業して、試験管を毎日洗っている私、「どこで間違えたんだ~?(笑)」。

 

「邪馬台国九州説・畿内説、当然どちらかの学者は嘘つきだ!」と失礼な暴言を見出しにしているわけですが、これも事実です。

真実は一つしか無いわけですから、九州に邪馬台国が存在していたのなら、畿内説を唱える学者の先生は嘘つきということになりますし、その逆もまた同じことが言えます。

ただ邪馬台国が卑弥呼とともに移動して両方に存在した場合は、不肖「市郎右衛門」あたまを丸めて懺悔させていただきます。

もう考古学だけで歴史を語る時代は終わった?

近年になって、遺伝子の分野や気象・地質学等の分野から新たしい情報が多岐にわたって、研究されるようになり新しい事実が掘り起こされていることも、歴史の定説を覆す新しい発見につながっている事はとても面白いと思います。

縄文海進などの自然現象が日本神話とマッチしている点なども興味深ことですね。

 

もちろん私が注目しているのは地元、山陰地方「出雲」「伯耆」「因幡」「但馬」「丹後」等の日本海沿岸の国々と、「吉備と総称される(備前)(備中)(備後)」の国々です。

わたしの歴史ブログで皆さんを歴史の虜にして見せます(笑)

歴史は、『今も執筆され続ける壮大な時の流れの物語』です。

その大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメント、早い流れのむこうや落差ある滝の裏、深い河淵の底や切り立った岩肌の上は、未だ解明されない多くの謎に満ちています。

 

この、「大長編スペクタクルストーリー」に魅了されない人はいないですよね?(そこまで~大げさなものか~?笑)。

ネバーエンディングストーリーという映画ご存知ですよね~。

歴史そのものがネバーエンディングストーリーなのです。

 

たとえ、私たちがいつか死んでしまってもこの物語は終わることがありません。

だからこそ、これまでに起きた事実はしっかりと研究して謎が有るならば、皆さんと一緒に解き明かしていこうではありませんか。

②二番目のルール ifをもっと楽しもう

信長が本能寺の謀反で死ななかったら

日本史の謎の中で誰もが知りたいTOP3は以下の3っだそうです。

これらすべてを私が取材して皆さんが納得する結論を引き出して見せます。

  1. 本能寺の変    34.6%
  2. 邪馬台国と卑弥呼 10.7%
  3. 坂本竜馬暗殺   9.4%

題名でも上げたように、日本史の謎NO1本能寺で信長が暗殺されなかったとしたら?

その後の日本はどうなっていたと思われますか?

全国統一は成し遂げられたのか?

信長の天下統一過程に随分時間がかかっていたイメージがあると思うのですが、それは1580年以前の信長進攻イメージではありませんか。

1580年までは、本願寺一向一揆をはじめとして、浅井・朝倉、武田、上杉、毛利などの有力大名が「反信長包囲網」を結成し、四方八方から信長軍を攻め立てたために、信長軍は思うように侵略スピードが上がりませんでした。

 

しかし、1580年頃までには上杉謙信が死に、本願寺とも和睦が成立し「反信長包囲網」は完全に崩壊します。

この時点で誰も信長をとめられる者は居なくなり、侵略のスピードは一気に加速していきました。

 

全国統一を考えると、信長一代ではかなり難しいかも知れませんが(当時の寿命も考慮しています)、秀吉が天下統一に所要した時間を逆算して考えればある程度可能性は小さくなかったと思います。

本能寺の変が起きた時点で、信長の天下統一はほとんど「目前」だったといえます。

織田軍は北国、関東、中国に兵を進め四国へは進攻寸前の状態でした。

信長が死んだのは1582年ですが、生きていれば大体1585年頃に、天下統一は完成されていたかもしれません。

 

現在の本能寺

 

少し状況を整理して説明しましょう。

信長は死の直前に日本のほぼ半分を支配していましたが、その領土の半分近くは、1577年頃からの暗殺までの五年間で獲得したものです。

なぜ晩年になって突然信長の侵略スピードがスムーズに進んだのでしょう。

武田信玄それは最大の強敵武将だった、武田信玄と上杉謙信の死によって、信長に対抗できうる勢力が居なくなったため、急激な勢いで信長軍の侵略が進むようになったのです。

 

さらに、信長の天下統一の最大の障壁であった、本願寺一向一揆勢力とも1580年に和睦が成立しています。

1578年に上杉謙信が死ぬと、上杉家では家督争いが勃発、北陸地方のほとんどを支配していた上杉家が、逆に滅亡寸前に陥りました。

本能寺の変の時点では、信長軍は上杉領のほとんどを奪取し、上杉の本拠・越後も3方面から信長軍の猛攻を受け、あと数ヶ月も持たない程の状況でした。

天正10年(1582年)本能寺の変の直前に、甲斐・信濃・駿河・上野の広大な領土を支配していた武田家も、織田・徳川・北条勢による甲州征伐により、わずか1ヶ月ほどの電撃戦で滅亡し、全領土が織田・徳川の支配化に落ちました。

 

越後と接する旧武田領はことごとく織田領となって緩衝地帯が消滅し、上杉は全方向を敵に囲まれることになり、これまで戦ってきた北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆に加えて、信濃からは森長可、さらに関東の上野国も織田領になったので、信長は配下の滝川一益に大軍を与え「関東平定軍団」を編成し、送り込んでいます。

上杉家は崩壊一歩手前まで追い詰められていたのでした。

 

関東南部を支配する北条家は、信長に恭順する姿勢を見せていたので、上杉が破れ滝川一益が残りの北関東(下野・常陸)2カ国の制圧を完了すれば、関東は完全に信長支配下に落ち着く体制になっていました。

制圧に必要な時間は、1年もあれば充分というところでしょうか。

 

もし関東が完全制圧されれば、奥州の諸大名も遠からず織田の軍門に下るか、抵抗する勢力があったとしても1年間持たないと思えます。

すでに伊達家は織田に恭順の意向を示していました(やんちゃな伊達政宗はまだ家督を継いでいません)。

 

よって関東および奥州の平定には、多く見積もっても2年あれば充分という情勢でした。

信長は一貫して、抵抗せずに降伏してくる大名は、領土を安堵して織田配下に組み込んでおり、関東・奥州の諸侯が抵抗しなければ、東国の平定はものすごくスムースに進んだ可能性が大きいと考えます。

 

次に西国についてはどうかと言うと、本能寺の変の時点で、中国地方の覇者・毛利氏は、信長に降伏する寸前まで追い詰められていました。

私も備中高松城跡にフィールドワークに行って来ました。

備中高松城の水攻めでの毛利家と信長軍の中国方面軍団長羽柴秀吉との和睦は、ほとんど「降伏」に等しい条件でした。

割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東の割譲(備中・美作・伯耆の3か国)とし、清水宗治自刃を和睦条件として提示しました。

秀吉が譲ったのは出雲・備後だけです。

毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、ここに和睦が成立しています。

 

また四国についても、信長の息子、織田信孝を総大将とする「四国制圧軍団」の編成が既に行われており、実際に大阪に1万5千の兵力が結集しており、出陣間近でした。

四国東部の三好氏は既に信長に服属していたので、四国統一は1年掛からなかったかも知れません。

 

残るは九州だけですが、北部の大友・龍造寺とも信長に服属の意向を伝えており、敵対勢力は南部の島津だけでした。

秀吉の四国・九州征服の所要時間を考えても、四国上陸から九州上陸までは1年あるかないかでしょうから、どんなに抵抗が激しくとも、1585年には信長の天下統一は磐石なものになっていたと考えます。

 

こうして見てみると、信長が本能寺で倒れた1582年の時点で既に、越後・関東・中国・四国にいたるまで、信長の侵略計画はまさに強力に進行中でした。

ましてや毛利も降伏寸前、北条にも抵抗の意志がない以上、信長に抵抗できる勢力は完全に皆無でした。

信長自身も、近々に朝鮮や明国へ侵攻するつもりだったようですから、天下統一はあと数年で完成すると、本気で考えていたのでしょう。

だからこそ(信長の天下統一が目前に迫っていたからこそ)、信長に天下統一をさせたくない政治勢力が「これはまずい」と、織田家の内乱を画策し明智光秀に本能寺を襲わせた景の役者は誰なのでしょうか?

公家や朝廷、前将軍の足利義昭から徳川家康など、明智光秀の黒幕説は数知れずあります。

面白いですね~。

火縄銃の数がハンパない!

さてもう少しifの世界を楽しんでみましょう。

当時世界一の銃保有国だった日本、その数数十万丁世界一といっても過言ではありません。

信長が北京を都にしたかもなんて夢の膨らむお話も出来ます。

ただし…

 

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』(フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ ) 画。

 

さて、ちょっと変則的な比較になりますが、1588年にイギリスとスペインのあいだでおこなわれたアルマダ海戦です。

スペインの無敵艦隊をイングランドとネーデルランド連合軍が打ち破った歴史的な海戦です。

このときは両軍合わせて230隻の戦闘艦が投入されましたが、この船に搭載された「大砲」は、両軍合わせてじつに4400門にもなります。

「大砲」が4400門ですよ、野戦砲が歩兵戦に大量投入されるのは、もうすこし先の話ですが、これほどの工業力、技術力があって、銃の量産が進まないというのは考えられないお話です。

このような事実から、日本が鉄砲を多数保有していたのは間違いありませんが、それ以上の説(信長の大陸進出)については創造が逞し過ぎるかもしれません。

後醍醐天皇が楠木正成の意見を取り入れていたら?【楠木正成湊川に散る!】

貴方のifが教科書を書き換えることだって有るのです。

建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫ります。

楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利軍を京より駆逐しました(尊氏はほうほうの程で九州に逃れます)。

 

九州に逃亡した尊氏ですが、1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得て大軍を率いて北上を開始します。

後醍醐天皇「湊川(神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。

 

しかしながら、大軍の尊氏軍に勝つには策略が必要と、正成は策を帝に奏上します。

作戦は、正成が淀川の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めし、帝に比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から正成軍で敵を挟撃する作戦でした。

しかしこの案は、帝が都から離れるのをよく思わない公家たちの意見で却下されてしまいます。

 

正成が得意とした山中での奇策も同じく採用されませんでした(六甲山でゲリラ戦も良い作戦だと思いますが…)。

失意の中、正成は湊川に向かって出陣します。

すでに後醍醐天皇の求心力は無きに等しく足利尊氏軍3万5千楠木正成軍は700だと伝わります。

 

大きな戦力の差を前に、正成は遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。

「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」

彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったと思われます。

後醍醐天皇のファンでフィールドワークを行い足跡を追い求めた私としては、心痛いのですが…

 

5月25日、湊川で両軍は激突、海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいたとされます。

戦力の差は歴然でしたが、尊氏は戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りません。

3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志、尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと思われます。

 

しかしながら、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、自軍の損失を考慮した尊氏は、一斉攻撃を命じます。

6時間後、正成は生き残った72名(神社の札だと76名になります)の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃しました。

正成は弟の正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して自害したといわれます(享年42歳)。

 

足利尊氏側の記録『梅松論』は、正成の死をこう記しています「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。

延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季公以下一族と「七生滅賊(七度同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼそうぞ)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられる場所が、神戸湊川神社境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟、神社に申し出ると神社神官と一緒にお詣りもできます)。

 

湊川神社(楠木正成自刃の地)

 

楠木正成はもう一度都を奪回し、足利尊氏の武家政治を取り込んだ新しい中央政権が出来上がったかもしれません。

少なくとも、南北朝時代は教科書には載らなかったかも知れませんね。

坂本竜馬が暗殺されていなかったら?

坂本龍馬暗殺犯人はすでに分かっている

誰もが知りたい日本史の謎第3位にランクインされていた坂本龍馬暗殺犯人ですが、実はもう特定されてます。

龍馬ファンが納得のいく犯人ではないために、ファンが事実を認めようとしないだけなのです。

そのうえに犯人は自白までしています。

 

京都霊山護国神社「坂本竜馬と中岡慎太郎像」

 

その犯人というのはは京都見廻組(江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織)です。

暗殺犯には諸説ありますが、証拠があるのはこの説だけで、歴史家の間でこの説を疑問視する者は一人いません。

明治の早い時期に今井信郎が自白しており、その供述書が公的文書として残っています。

 

この時期に彼が龍馬の暗殺者を名乗るメリットは全くありませんでした。

今井自身も実行犯を戦死した佐々木只三郎であるとし、存命の仲間の名前は言いませんでしたし、今井自身、自分は見張りだったと証言しています。

手を下したと知れれば、命がないのがわかっていたからでしょう。

運よく彼は恩赦により生きて牢屋から解放されましたが、それが黒幕説を生む結果となったのだと思います。

龍馬暗殺犯なのに刑が軽いのはおかしい、ということですね。

 

ただ龍馬自身、当時はさほど有名でもなく(維新三傑はおろか十傑にも名を連ねていません)、また暗殺犯を執拗に探していたのは龍馬と縁のある人間と土佐藩閥だけでした。

新政府の中で土佐はそれほど勢力があったわけでもなく、主流は薩長藩閥でしたから、薩長が龍馬暗殺犯だけを重罪にするわけにもいかなかったのでしょうが、龍馬ファンの皆さんは納得出来ないのかもしれません。

 

龍馬暗殺犯の嫌疑をかけられた新選組局長近藤勇に対しても、土佐の谷干城が極刑を主張したのを薩摩の有馬藤太は諌めたとも言われています。

結局、有馬が不在の間に谷が近藤を処刑してしまうわけですが、谷は生涯新選組説を信じて疑いませんでした。

谷は龍馬を尊敬していて、その龍馬があまり有名でもない今井に斬られたなんて許せなかったのかもしれません。

 

谷と同じ理屈が現在の坂本龍馬ファンにもあるのだと思います。

また、明治の後年になって今井は改めて自分が暗殺者であることを証言していて、その時には谷干城から売名行為だと非難されています。

谷にしてみれば、真犯人が新選組ではないと近藤処刑を強行したことは自分のミスになってしまいますし、尊敬する龍馬が小物に暗殺されたのを認めたくなかったのだと思います。

どうしても今井が犯人というのは認められなかったでしょう。

しかし、何のメリットもない時期に公的に記録が残る場でも今井は証言しているわけですから、売名という指摘は当たらないでしょうね。

 

更にいえば、谷は明治政府で大臣の職を務める立場にいながら、龍馬暗殺犯の記録が残っていることすら知らなかったということになります。

その上、政府公認の暗殺犯が恩赦で赦免されたことすら知らなかったということになりますね。

 

ということで、皆さんの夢を打ち砕くようなお話になってしまったので、それでは坂本竜馬が暗殺されなければ、その後の日本の行く末はどうなっていたのでしょう?

少し考えてみませんか。

坂本竜馬が暗殺されなかったら?

坂本龍馬ファンには申し訳ないのですが、私的にはそれほど新政府に影響は無かったと考えます。

竜馬暗殺は1867年10月ですが、その年徳川慶喜によって大政奉還はすでになされ、倒幕の密勅も発行されています。

さらに薩摩と土佐の同盟も結ばれていますね。

 

新撰組も坂本龍馬には関心は無かったようですし、八方美人でもあったため幕府の要人などとも接触があり、薩摩長州にとっては面倒な存在であった可能性があります。

新政府に参加されれば徳川は潰さない等の発言もあったようですので新政府に参加されては困るのは薩摩と長州です。

 

前章でも書いたように、ただ龍馬自身、当時はそれほど有名でもなく維新三傑はおろか十傑にも名を連ねていません。

後に書かれた小説が彼を有名人にしたといっても過言ではないのかもしれません。

坂本龍馬については岩崎弥太郎と柴田錬三郎の創作が多いよな気がします。

 

何せ選挙で日本の指導者を決めるなどと言っていた坂本ですから尊王の薩摩長州から見れば厄介者であったと考えられます。

新政府に参加した可能性が無いとは言えませんが、商売の方に興味を示したと考えるのが妥当かもしれません。

ただ、三菱は「才谷屋」という屋号に成っていたかもしれませんね(笑)

スポンサーリンク

③三番目のルール フィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)

出雲大社、48Mの空中神殿がここに?

皆さん「雲太、和二、京三」って知ってます?

平安時代の数え歌で、一番は出雲大社二番は東大寺大仏殿三番は平安京大極殿だとうたったものといわれます。

 

本当はどの程度の高さだったのか?後ろの八雲山に作らえていればおよそ96m有ったかもしれません。

本居宣長の『玉勝間』によれば、かつての本殿は現在の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされます。

同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになっています。

上古については流石に神話の中のお話だとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになります。

この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎、というものですが『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』を元にしており、その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もあるようです。

複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっています。

「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに記録があり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊していると考えられています。

上古32丈についても、山に建てたものについて、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もあります。

 

高層建築が必要とされたのは別天津神(ことあまつかみ)の祭祀と関係があるとする説もあります。

別天津神は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々をいいます。

『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神として成って、そのまま身を隠しました。

    1. 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)至高の神
    1. 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神
    1. 神産巣日神(かみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神(高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神)

 

その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われています。

この二柱の神もまた独神として身を隠しました。

    1. 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)活力の神
    1. 天之常立神(あめのとこたちのかみ)天の神

これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼んでいます。

 

一方で、前述したように明確な文献が『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証にとどまること、32丈説として想定される「山」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどめっそうもないといった点が否定要素とされています。

2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。

古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりしましたが(私も興奮したもですが…)、結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いとされています(鎌倉時代ですね)。

ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍ももちろんあります。

16万の軍勢が激突した関ケ原!

桃配り山の「徳川家康本陣」

 

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録はわずかしかありません。

二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評しています。

関ヶ原の戦いにおける9月15日当日の実戦の状況について

関ケ原「石田三成」陣

 

(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。

(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷義継(大谷吉継)・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。

一次史料として私が選んだのは、合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状の内容による合戦当日の記録です。

松平家乗は家康の親戚筋で、関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めています。

その吉田城に戦勝を知らせる通知の書状となります

9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。

その他の一次資料としては上の家康の書状です。

④最後に一言

 

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

絶賛ランキング参加中!二つのバナータグを「 ポチっと」クリックして応援お願いします。

|o´艸)。oO(Thank you)。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

バナーをクリックしますと、ランキングページに移動します。市郎右衛門のブログは、皆さんのお陰で上位にランクインしておりますので、
「高天原の縁側日記」をもう一度クリックして頂きますと、元のブログに戻ります(^人^)。
又PCの片方は、Ctrlを押しながら「ポチっと」上のバナーを押していただけますと、ブログから離脱せずに応援していただけます。
スポンサーリンク

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事
ツールバーへスキップ