
歴史を120%楽しむための6つのルールの五番目と六番目をご紹介します。
歴史を120%楽しむための6つのルールの五番目と六番目は歴史は勝者が創ると知れと過去を知れば未来の人生が変わるです。
『過去に学ばない者は、過ちを繰り返す』の言葉は、スペイン出身のアメリカの哲学者・詩人のジョージ・サンタヤーナの言葉です。
「人間は必ず過ちを犯すものだが、過去に学ぶ素晴らしい能力をもっている」という意味を表しています。
皆さん私と一緒に歴史を勉強して未来を切り開きませんか?
前編①②と中編③④を読んでいただいた方々は、もう歴史の楽しさの概略をお分かりいただけたと思います。
日本の歴史とそれによってつちかわれた文化は、世界のどの国よりも素晴らしものです。
これから私と一緒に各地をフィールドワークしていきながら、日本の歴史や文化を楽しんでいただき未来の自分の進む指標にして頂けたらと思います。
ブログの最初に読んでいただいた6つのルールを実行していただけましたら、99%の方々は必ず歴史が好きになりますし、歴史を通して自身の未来も足を踏み外さずに進むことができるはずです。
是非【ブックマーク】して頂いて、このブログから楽しい歴史(過去への教訓探しの旅路)へ旅だって頂けましたら幸せに思います。
ジョージ・サンタヤーナの言葉『過去に学ばない者は、過ちを繰り返す』をもう一度かみしめて、人生の選択を間違わないように「市郎右衛門」と一緒に歴史を楽しく学びましょう。
目次
五番目のルール 歴史は勝者が創ると知れ
皆さんなんとなく、「源平合戦」の平氏(平清盛)、織田信長を「本能寺の変」で殺害した明智光秀や「関ケ原の戦い」で敗れた石田三成さらには、「戊辰戦争・明治維新」で朝敵となった徳川慶喜や松平容保、新選組や奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を悪者というイメージで感じてはおられないでしょうか?
現在は新しい研究資料から敗者にも「敗者の正義(正義≠善です!倫理・合理性・法律・自然法・宗教・公正などにもとづく道徳的な正しさに関する概念です)」があったことが少しずつ証明されてきましたが、私も子どものころには敗れた側を悪者と感じていました。
これはのちに勝者となった(権力を手中にした)為政者の策略です。
勧善懲悪時代劇の見過ぎかもしれません(悪は必ず負けるのテレビです)。
新選組=悪のイメージが定着したのもテレビドラマ「鞍馬天狗」の影響が強いかもしれません。

浮田可成・画、錦旗(赤地大和錦御旗)日像と神号が書かれています
でも、徳川慶喜は部下を置いて船で逃げちゃったんでしょ、それに新選組は人殺し集団のイメージで悪い人、明治天皇の「錦の御旗」を見て逃げちゃったって聞きましたけど、それに奥羽列藩同盟って何ですか?初めて聞いた名前です。
まず、徳川慶喜が逃げ帰った事で、日本人同士の戦争が拡大しなかったと考えてみるのはどうでしょう。
新選組が殺した「敵(浪士)」は鳥羽・伏見の戦い(1867年1月)が始まる前までに26人です(池田屋事件で討ち取った7人も含む)。
最盛期230人いた隊士が、1863~1867年で殺した人数は単純計算で年に4人ぐらいで、当時として殺人集団とはいいがたいと思いませんか?
明治天皇は慶応3年1月9日、満14歳(今の中学二年生)で皇位に着きました。慶応4年(1868年)1月3日鳥羽伏見の戦いで掲げられた前出の「錦の御旗(図)」は本物だったのかな?
それでは、大坂夏の陣(以下現在の大阪と当時の大坂を時代を考慮して使い分けています)で豊臣家を滅ぼした徳川家康(徳川家)の例を参考にいかに勝者が敗者を貶めて来たかを少し考えてみましょう。
家康は豊国神社を破却した
豊臣秀吉の影を抹消したかった徳川家康
慶長3年8月豊臣秀吉が死亡すると、遺言によって遺体は京都東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、その1年後山の中腹に日本初の権現造りによる社殿が造営され、時の天皇(後陽成天皇)により「豊国大明神」の神号が与えられ、秀吉は神として祀られる事になります。
往時には豪華絢爛な装飾をほどこされたいくつもの殿舎が建ち並び、息を呑むほどの美しさで、盛大な祭事が行われていたようです。

現豊国神社の扁額
秀吉の七回忌祭礼は、徳川家康が主催したといわれています(「豊国大明神」の神号が与えられた秀吉の七回忌にも作意があるかもしれません)。
1600年に関ケ原で西軍を下し、すでに江戸に幕府を開いた家康は押しも押されもせぬ天下人でした。
しかしながら、形式上は大坂城のあるじ豊臣秀頼を支える立場でもありました。
ただ、七回忌を営んでみて都びとに根を下ろした「太閤さん」への思慕と敬愛と熱狂ぶりを知り、家康なりに含むところがあったようです。
これらは後に、大坂城攻めを決意するきっかけの一つになりました。
徳川家康は豊臣氏を滅ぼすと(大坂夏の陣1615年6月)、一月後の元和元年(慶長二十年・1615年)7月9日豊国神社の破却を命じています。
- 豊国神社は本殿はじめ社頭一円を全て破却する。
- 豊国大明神の神号をはく奪し、国泰院俊山雲龍大居士と称しめる。
- 阿弥陀ヶ峰の秀吉の廟墓を掘り起し、方広寺裏手に移して仏法により供養する。
存命だった秀吉の妻・北政所(きたのまんどころ)の嘆願で、廟墓の移転や本殿の破却のみまぬかれ、実際は衰退に任せるにとどまったようです。
しかし、神宮寺や豊国神社の社殿などが取り壊され、豊国廟の参道は新たな建物の建設(新日吉神社)により塞がれてしまいました。
大坂城も徳川家が作り直した
5年後の元和6年(1620年)大坂城は、夏の陣焼失後に石垣ごと上に盛り土され、その上に新たに現在の大坂城の石垣が築かれました。
二代将軍となった徳川秀忠は、豊臣時代の物をスッポリと土で覆いかぶして、まったくの別物を、新たに天下普請で構築しています。
したがって現在の大坂城の石垣に豊臣時代のものは全くありません。

先の大戦で燃え昭和期に建てられた現「大坂城天守」
家康は、秀吉の存在や行った事のすべてを、日本の歴史から末梢したかったのではないかと思います。
秀吉が、天下を取った後も刃向かう事さえ無ければ、信長の息子や弟も、そして足利将軍家をも抹殺(将軍は辞任させてますが)する事が無かったのに対し、家康は、まさに豊臣秀吉および豊臣氏のすべてを払拭させたかったに違いありません。
だからといって「家康=悪人」という事ではないと思います。
最後の詰めが甘ければ、徳川家の天下は長持ちせず、また戦国の世に突入すかも知れないわけですから、250年という大いなる平和をもたらすためには、そこは情けをかけず、徹底的に心を鬼にする必要があったのだと思います。
明治時代によみがえった豊国神社
徹底的に破壊された豊国神社と秀吉の墓(豊国廟)は、250年の長きに渡り風雨にさらされ、訪れる人も無くいつしか草むらに埋もれてしまいました。
そんな豊国神社が、再び目覚めるのは明治時代のことです。

京都「豊国神社」国宝「唐門」明治の再建で南禅寺の塔頭である金地院から移築
明治天皇が大阪に行幸された際、「国家運営に多大なる貢献した秀吉を祀るべき」とお考えになり、豊国神社の再建を提案されたのです。
当初は、豊臣秀吉の居城であった大坂城の敷地内に社殿が建てられる計画でしたが、協議の末大仏建立を夢見た、京都の方広寺の大仏殿の跡地に建てられることになりました。
これが、現在、京都市東山区にある豊国神社です。
一方の大阪には別社となる豊国神社が中之島に建てられますが、この社殿は大阪市庁舎の拡張により、昭和三十六年(1961年)に、念願の大坂城の敷地内に移転されます。

現大坂城桜門正面の「豊国神社」
こちらが、現在「大坂城桜門」の前に鎮座する「豊国神社」です。
「栄枯盛衰」は歴史の必須事項ですが、貧しい百姓から関白・太閤にまでに上り詰めた豊臣秀吉!は特に関西では人気ですね~!
薩長の錦の御旗は偽物だ!
「錦の御旗(にしきのみはた)」はどんなもの?
ルールの最初でもお話したように、戊辰戦争・明治維新で朝敵となった徳川慶喜や松平容保、新選組や奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に悪者というイメージをうえつけた「錦の御旗」について少し詳しくお話させていただきます。
戊辰戦争で使用された本物?の「錦の御旗」ですが、あまりに朱の色が鮮明だった為めに、明治時代になって色落ちが生じます。
新政府は、絵師「浮田可成」に命じて、後世に残す為めにソックリに模写させています。
上でご覧いただいた模写が、国立公文書館に保存されています。

京都御所「蛤御門」柱に残る白い痕は「禁門の変」時の長州軍の弾痕
戊辰戦争時、明治天皇は即位したばかりの15歳(現中学校三年生)前年の慶応2年12月25日(1867年1月30日)、松平容保(京都守護職・会津藩主)を信頼し攘夷寄りの(外国人排斥賛成派)孝明天皇が急に崩御されます。
孝明天皇の崩御には12月25日に35歳という若さで健康だったこと、死因は天然痘ということですが、あまりにもタイミングがよすぎて、暗殺説がいくつか出ています。
新しく即位された明治天皇は満14歳で践祚の儀を行い皇位に即きます。
ちなみに、「践祚の儀(せんそのぎ)・践祚(せんそ)」とは、天子の位を受け継ぐ儀式のことで、古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味します。
これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを「即位」といいます(来年行われるのでよく見ておこう)。
明治天皇は元服前の践祚であったので「立太子礼(皇太子が自らの立太子を宣明)」を経ずに天皇になっています。

京都御所に安置される「高御座」皇太子徳仁親王即位時は陸路東京に運ばれるそうです

「高御座」全体図 Wikipediaより拝借
つまり「錦の御旗(にしきのみはた」は、天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗ということです。
「錦の御旗(にしきのみはた)」偽物論
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗(略称「きんき」)が掲げられました。

東寺正式名「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」国宝「五重の塔」特別拝観時
この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、愛宕郡岩倉村にある中御門経之の別邸で岩倉具視に委嘱された物でした。
岩倉の腹心玉松操のデザインを元に、大久保が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造したといわれています。
もう半分は品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげています。
岩倉具視の策略のような気がしてきませんか?
鳥羽・伏見や戊辰戦争以前はいつ使われた?
「錦の御旗(にしきのみはた」略称錦旗(きんき)は、別名菊章旗、日月旗とも言われます。
赤地の錦(丹・白・黄、つまり赤・白・黄の色糸を用いて織り出された絹織物の総称)に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗(この日之御旗と月之御旗は二つ一組)です。
朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える慣習があります。
承久3年(1221年)の「承久の乱」の際に、後鳥羽上皇が配下の将に与えた物が、日本史上の錦旗の初見とされています。

承久の乱で連座され私の地元但馬国(現豊岡市高屋)に流された後鳥羽天皇皇子「雅成親王陵墓」
その後、後醍醐天皇が笠置山に立て籠もった際には日輪と月輪の意匠が入ったもの(「太平記」より)が、室町幕府初期には「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入ったもの(「梅松論」より)が用いられたと伝えられています。
つまり、私の推測では南北朝の合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)ごろから、慶応4年(1868年)正月470年程も忘れ去られていた「錦の御旗」がどのようなものだったか分からないと思いますし、送る天皇は現在なら中学生三年生、海千山千の岩倉具視や大久保利通が最終兵器としてうまく利用したと考えるのが妥当ではないでしょうか?
一方で敗色濃厚となった旧幕府軍ですが、もちろん正義と呼べる事実があり、明治天皇即位が立太子礼を伴わない践祚であるならば、奥羽越列藩同盟にも大義名分と挽回のチャンスもあったのですが、その話はまたいずれいたしましょう。
六番目のルール 過去を知れば未来の人生が変わる
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のようにデロリアンに乗って(乗らなくても)未来がわかればきっと素敵な?人生が送れるかもしれませんね。

今は無きUSJアトラクション「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で15年位前?長男とともに(笑)
しかし、まだ無理なのでこ過去を教訓に、未来を予測する生き方を見つけてみる、それが歴史を楽しむアプローチの一つです。
ファッションのブームが定期的に繰り返すように歴史も繰り返していることを忘れてはいけません。
「農業革命」「工業革命」「金融革命」そしてこれからは「情報革命」の時代、時代を先取りするためにも、過去の歴史を教訓にしましょう。
やっぱりピンクが昔から好きだったんですね(笑)
息子さんですか?可愛いですね~~~!
確かに、先生も茶髪にはビックリしたけどね...
うちの「萌」も30年前に私が着てたリーバイスのジージャン(ファースト)引っ張り出して着ているよ。
なんだか今は、またブームになっているらしいじゃないか?
今は、情報革命が始まったばかりですが、情報を操る者が勝つのは過去においても実証されているね、信長が桶狭間の戦いで勝利したのも、秀吉が中国大返しで光秀を破ったのも、情報に先んじていたからだね。
過去の史実を知ら無ければ、未来の人生でつまずく可能性が有る
歴史を120%楽しむためのルールの最初で、歴史は、『現在も執筆され続ける壮大な時の流れの物語』ですと申しました。
その「大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメントです」とも申しました。
つまりは「川を上れ」ということです。
「川を遡る・源流をめざす」というのは、もちろん歴史を遡って学べという意味です。
歴史を追いかけ学ぶことで、社会はどんなふうに動くのか、そのとき人間はどんなふうに行動するのか、その本質が見えてくるようになります。
「川を上れ」、つまり歴史に学ぶことは、今の日本は根本的に欠けているように感じます。
その最大の問題は、日本の教育では本当の意味で「歴史」を学んでいないからだといえます。
もちろん、われわれは日本史や世界史を義務教育で学び、大学受験では文系(国公立大なら文理関係ないかな?)の多くの学生が非常に細かい史実まで答えることができます。
しかし、そこで学んでいることのほとんどが、「何年に何があった」という出来事と年号だけではありませんか?
その背景にある経緯やロジック(論理)を学んでいるわけではないのです。
しかし、歴史を学ぶということの本当の意味は、社会が動くメカニズム、すなわちある出来事がどんな背景や理由で生じ、それが人間社会にどんな作用をもたらしたのか、というロジックを学ぶことにあります。
もう少しかみ砕いて、わかりやすくお願いできますか?
歴史は楽しく学ぼうが、先生のモットーですよね、お願いします~。
それでは、ここでもうひとつ、ジョージ・サンタヤナの名言を紹介します。
過去を思い起こしえないものは、過去を繰り返すように運命づけられている
人間は、過去に大きな過ちを幾たびも犯しています。
その過ちをただすためにも、私たちは歴史を学ぶ必要があると思います。
せっかく学ぶなら楽しく学ぼうではありませんか?
高校の歴史の教科書面白かったですか?
けして面白いとはいえませんでしたよね。
なぜでしょうか?
それは、授業や勉強は記憶が中心で、フィールドワークや経緯やロジック(論理)を考える時間が全くなかったからに違いありません。
歴史を学ぶことと、経験から学ぶことの違い
歴史というと、「もう終わってしまった過去のことで、変化の激しい今の時代の問題解決には役に立たない」と感じるかもしれません。
では今のことだけ知っていれば、未来が見通せるのでしょうか。
皆が変化の激しさについていけないと嘆く時代には、未来を見通す洞察力が必要になります。
真の洞察力は、社会全体がどのようなメカニズムで動いているのかを考え抜き、見極めていなければ、身につかないものです。
現在のわれわれの問題解決の助けとなり、さらに未来を考察するための教訓が、歴史の中にたくさんあるのです。
それを学ぶのが歴史学なのです。
ちなみに、歴史を学ぶことは、経験から学ぶということと根本的に違っています。
オットー・フォン・ビスマルク(ドイツの政治家)の言葉に「愚者は経験から学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉があります。
直訳は、「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」です。
経験はある特定の出来事によるものですが、歴史というのはもっと大きな流れの中から出てきたものです。
そこには、われわれが未来を考察するための、たくさんの素材が埋まっています。
歴史を追うことで、社会が変化するときに、それがなぜ起きたのかという要因が見えてくるはずです。
例えば、江戸時代を通して次第に商品経済が浸透してくる中、黒船が来航し幕末の志士と呼ばれる人たちが時代の変革を担いました。
そして、江戸から明治へと時代が変わり、経済についても国の体制についても、大きな変化を遂げるのは皆さんがご存知の通りです。
そうした組み合わせを考えながら歴史を紐解くことで、変化の流れが見え、歴史が面白く読めるはずです.
実は過去の事例から学べることは数多くあります。
迷った時は、「過去に学んでいるかどうか」で大きな違いが出てくるはずです。
さらにウィンストンチャーチルの名言もご紹介します。
未来のことは分からない。しかし、我々には過去が希望を与えてくれるはずである
ウィンストン・チャーチルは、誰もが知る20世紀を代表する政治家です。
第二次世界大戦時のイギリス首相として活躍し、一度退いた後、6年後に再度首相を務めています。

ポツダムに集まった3ヶ国首脳。左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相。(1945年7月25日)
現在は先が読めない時代だそうです。
しかし、文化が発達した近現代において先が読めた時代などあったでしょうか?
そう、未来は過去の経験に基づいて、自信を持って判断・行動しなさいと、チャーチルは主張しているのです。
問題は、自らの経験に自信を持てるような、そんな時間の過ごし方をしてきたかどうかということでしょう。
一日を懸命に生きて今日がbetterなら、明日はもっと努力してbestを目指す。
そんな毎日の積み重ねが自信を持てる過去の経験につながるのです。
将来の不安はその自信で乗り切れるはずです。
先が見えない現在というのは、自分自身が十分努力して結果を残してこなかったことの言い訳でしかありません。
【最後に一言】歴史ってやっぱり面白い
「市郎右衛門」の新ブログ99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」の出だしはいかがでしょうか、面白く読まれましたか?
さて、最初に読んでいただきました【永久保存版】歴史を120%楽しむための6つのルールと題した、前編①②・中編③④・後編⑤⑥が完結しました。
歴史に詳しくない方々にも、歴史が好きになって楽しめる方向性を示したつもりです。
- 通説・定説は信じるな!
- ifをもっと楽しもう
- フィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)
- お気に入りの時代と人物をつくろう
- 歴史は勝者が創ると知れ
- 過去を知れば未来の人生が変わる
前ブログと違い、「わかりやすく楽しく学ぶ」ことをモットーに趣向を凝らして、私も皆さんと一緒に歴史を学んでいきたいと考えています。
さとね君は先生と呼んでくれていますが、私もまだまだ勉強途中の歴史好きなおじさんです(笑)
ただ、このブログは生涯のライフワークと考えておりますので、最期までお付き合いを願えましたら幸いです。
早速、さとねが可愛いって噂になってます~~(笑笑・ありがとうございます)
皆さんの応援コメントや歴史に対する御意見も随時受け付けております。
とっても、励みになりますのでよろしくお願いします。
明るい未来を目指して
最後にもうひとつ素敵な名言を一つご紹介します。
岡倉天心 「東洋の理想」から。
われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来の秘密が横たはつてゐるといふことを本能的に知る。
どうですか、歴史勉強したくなったでしょうか?
さて皆さん、横たわっている、未来の秘密を見つけに源流目指して、船を走らせ始めましょう。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。