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【永久保存版】歴史を120%楽しむための6つのルールの続編、ルール三番・四番目をご紹介します。

三番目のルールはフィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)と四番目はお気に入りの時代と人物をつくろうです。

 

実際に現地「遺跡・史跡・城跡・寺社仏閣」に足を運ぶことで、どれほど過去のイメージを再現できるかおわかりでしょうか?

さらにお気に入りの時代をつくることで、その時代が好きになれば前後の時代はもちろん、文化や建物にも興味がわくことは間違いありません。

同じように好きな人物をつくることも、感情移入が進んでさらにその時代が好きになるとともに、好きになった人物の時代や集団・周りの人々にも興味が湧いてくるのです。

 

皆さん、一番目の通説・定説は信じるな!と二番目のifをもっと楽しもうは、いかがでしたか?

もう33%くらい歴史が好きになって来ませんでしたか?(笑)

市郎右衛門
33%と書きましたのは、①~⑥まで6つのルールを提唱させていただくわけですが、すべてを一つのブログにまとめるのは長くなりすぎるので、前編①②・中編③④・後編⑤⑥に分けさせていただきました。
前編をご覧いただいた方は分けても相当なボリュームを感じていただけたと思います。
99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」と題してお送りしていますので、三分の一で33%と表現させていただきました。
今回は中編③④をお送りいたしますのでお楽しみください。
さとね君が、また脱線するかもしれませんが、彼女はまだ日本の歴史や文化の学習を始めたばかりなので、大きな心でお許し願います。

 

さて、もう一度だけ言わせていただきます。

歴史は皆さんの先祖が過去を生き抜き、子供や孫にまで引き継がれる、永遠に続く物語(ネバーエンディング・ストーリー)です。

ここで示した6つのルールを実行していただけましたら、99%の方々は必ず歴史が好きになりますし、歴史を検証することで自身の未来も足を踏み外さずに進むことができるはずです。

是非このページを【ブックマーク】して頂いて、このブログから楽しい歴史(過去への教訓の旅路)へ旅だって頂けましたら幸せに思います。

三番目のルール フィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)

市郎右衛門
そういえば、さとね君は歴史的に有名な所には、行ったことがあったかな?
中学校の就学旅行で広島県「安芸の宮島」に行ったと話していたね。
先生が、皆さんに歴史を楽しんでもらうために推奨しているのが、フィールドワークなんだ。
つまり自分で現地に足を運んで、実体験するすることで過去の人物と同じ目線で歴史を考えることができるようになると考えているんだよ。

さとね
はい!はい!は~い!
宮島行きました~~!とっても綺麗でビックリしました。
平清盛さんが造ったんでしたよね、私が住む神戸も清盛さんとは縁が有るんですよね、少しは勉強してるでしょ。
あれ~?先生、「宮島行ってないから行きたいな~」ってこの前いってませんでしたか(笑)

出雲大社、48Mの空中神殿がここに?

皆さん「雲太、和二、京三」って知ってます?

一番は出雲大社、二番は東大寺大仏殿、三番は平安京大極殿だと歌われた平安時代の数え歌です(太郎・二郎・三郎ですね)。

 

国宝「出雲大社本殿」

 

本居宣長の『玉勝間』には、かつての本殿は現在の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)の高さがあったという伝承があると、記載されています。

同じ出典にある、「金輪造営図」と併せて想定される姿は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものになっています。

上古についてはさすがに神話の中のお話だとしても、16丈あったとすると東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より大きかったということになります。

 

この説については賛否両論あり、肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること、「雲太・和二・京三=出雲太郎・大和次郎・京三郎」というものです。

「雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。」

を元にしており、その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との否定説もあるようです。

出雲大社は「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などの書物に記載されています。

 

大社は複数の記録により、複数回倒壊していることがわかっています。

平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊していると考えられています。

上古32丈についても、山(裏の禁足地八雲山)に建てたものと考え、その標高を述べたものと附会すれば、不自然では無いという意見もあります。

 

高層建築が必要とされたのは別天津神(ことあまつかみ)の祭祀と関係があるとする説もあります。

別天津神は、『古事記』において、天地開闢の時にあらわれた五柱の神々をいいます。

『古事記』上巻の冒頭では、天地開闢の際、高天原に以下の三柱の神(造化の三神という)が、いずれも「独神(ひとりがみ)」(男女の性別が無い神として成って、そのまま身を隠しました。

  • 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)至高の神
  • 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神
  • 神産巣日神(かみむすひのかみ)生産・生成の「創造」の神(高御産巣日神と対になって男女の「むすび」を象徴する神)

 

ちなみに私が毎日、散歩の途中にお詣りする「有間神社」の主祀神は天之御中主神さまです(参考までに)。

その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われています。

この二柱の神もまた独神として身を隠しています。

  • 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)活力の神
  • 天之常立神(あめのとこたちのかみ)天の神

 

これら五柱の神を、天津神の中でも特別な存在として「別天津神」と呼んでいます。

つまり特別な天津神の指示で国津神の大国主が建てる神殿は高くなければいけなかったという考え方です。

 

一方で、明確な文献が前出の『玉勝間』と江戸時代まで下ること、証拠とされているものがいずれも傍証(直接の証拠ではないが、その証明力を増す間接の証拠)にとどまること、32丈説として想定される「山(後ろの八雲山)」が、そもそもただの山ではなく神域であり工事が入ることなどないといった点が否定要素とされています。

後ろの八雲山に作らえていればおよそ96m有ったのも嘘とはいえません(143m程の高さがあります)。

本当はどの程度の高さだったのか?気になりますよね、2000年に凄いものが発見されました。

やはり空中神殿は実在した!

2000年、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘されました。

 

見つかった宇豆柱の痕「古代神殿柱跡」

 

古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されたりしましたが(私も興奮したもですが…)、結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いとされています(鎌倉時代ですね)。

ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍はあります。

 

2016年7月、室町時代の三代将軍「足利義満」が相国寺に建てた七重の塔に匹敵する110mの北山大塔(1404年建立開始・金閣寺側)の先端部が見つかったニュースが報道されました。

世界最古の企業「金剛組」は578年に結成されています。

もちろん建設業です(取材にいきたい)。

古代の日本の建築技術は世界一といっても過言ではありません。

さあ、現地に足を運んでみましょう。

 

古代出雲大社「空中神殿模型」

 

16万の軍勢が激突した関ヶ原!

一昨年の秋に「関ヶ原」に取材に訪れました。

私の記憶が正しければ、金曜日の夕方大阪の職場を出発し岐阜の大垣市まで車で走り、マクドナルドの駐車場で仮眠をとって(お巡りさんに不審尋問されましたが、笑)明るくなって大垣城を見学、その後「関ヶ原」に向かい松尾山の小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)以外は全ての陣地跡を巡り、午後からは滋賀県最高峰の伊吹山に登山するという強行軍でした。

関ヶ原は意外と狭く、ここで16万人もの軍隊が衝突したとは思えないほどでした。

当日朝は霧が出て周りは良く見えなかったといわれていますが、霧が晴れた後はお互いに敵の状況は良く見えたのではないかと思います。

やはり、実際に現地に行ってみないと分からないものなのです。

 

桃配り山の「徳川家康本陣」

 

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録はわずかしかありません。

二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評しています。

関ヶ原の戦いにおける9月15日当日の実戦の状況について

 

関ヶ原「石田三成」陣

 

(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。

(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷義継(大谷吉継)・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。

一次史料として私が選んだのは、合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状の内容による合戦当日の記録です。

松平家乗は家康の親戚筋で、関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めています。

その吉田城に戦勝を知らせる通知の書状となります。

9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。

その他の一次資料としては上の家康の書状です。

現地をフィールドワークした後に観賞するとひとしおです

 

四番目のルール お気に入りの時代と人物を創ろう


当たり前の理論なのですが、誰でも好きなことや物を作れば好きになるし、夢中にもなります。

ちなみに私の大学生の長女(女性アバターのモデル)ですが、『三代目 J Soul Brothers』の大ファンでバイトで稼いだお給金の結構なお金をライブやグッズにつぎ込んでいます。

「女(虚仮)の一念、岩をも通す」という言葉がありますが、バイト仲間で最速ランクアップして賃金ランクでも最高額になったそうです(時給1350円)。

 

但馬弁だとこういうときには「お~とろっしゃ!」と表現します。

「びっくりした~~!」です。

「好きこそ物の上手なれ」の言葉もありますし...(笑)

さとね
そういえばこの前も、「神戸ワールド記念ホール」のアリーナでライブ見たって言ってましたよ。
「萌」先輩、もう卒業で就職も決まってるし、うらやましいです~~、アッ!まじめにね(-"-;A ...アセアセ
私はやっぱり戦国時代が大好き、「愛」の兜の直江兼続様の大ファンです。
ゲームの「刀剣乱舞」や「信長の野望」のおかげで友達にも、日本刀や武将ファンが増えましたよ。

そういえば、さとね君は「萌」のテニスサークルの後輩だったね。
直江兼続ファンですか、なかなか素敵な選択だね。
兜の「愛」は有名ですね、「愛」は仏教の「愛染明王」を意味しているんだよ。
「愛染明王」は一面六臂で他の明王と同じく忿怒の顔をしています。
悟りとそれを妨げる迷いは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることを体現した姿ともいわれています。
直江兼続は軍神としての愛染明王への信仰から兜に愛の文字をあしらったとも考えられているんですよ。
ちょっぴり、さとね君には難しかったかな?今はまだ分からなくても大丈夫ですよ。

古墳時代が好き

さて私はといいますと、古墳時代前後が好きなんです。

皆さんは古墳時代がどこから始まるか知っておられますか?

以前のブログで「まだご紹介していないのですが、出雲には四隅突出墓といわれる、独特の古墳が有り、国譲り(記紀の記載)以前の出雲が独特の文化を有していたのではないのかと考えています。鳥取県米子市の妻木晩田遺跡では四隅突出墓が数多く発掘されています。」と書きましたところ、専門家の方からお叱り?と訂正と励ましを頂きました。

いわく、「四隅突出墓は古墳では無い!正確には四隅突出墳丘墓で、古墳と書くのは間違い!」とのことです。

私もなんで?でしたので調べてみました。

ちなみに、妻木晩田遺跡は西伯郡大山町の丘陵地帯にあり旧国名では伯耆国に成りますが、私は出雲王国を伯耆までふくむ大きな文化圏と考えています。

墳丘と古墳の違いはなに?

妻木晩田遺跡で最初に作られた洞ノ原1号墳。

 

四隅突出墳丘墓の分布図、これが出雲王国の全貌だ!

 

愛有るクレームを頂きまして、墳丘墓と古墳にどのような違いがあるのか調べてみました。

webの見解では「古墳」は墳丘が一人の埋葬者のために造成されている(複数の埋葬者がある場合は基本古墳に含めない)。

古墳は、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳という規定形で、一定の政治的意味が付与されていると考えられているようです。

 

吉野ヶ里の墳丘墓、山陰地方の四隅突出墳丘墓(西谷墳墓群も取材済みですが、前ブログでもご紹介していません。)などは複数の埋葬者があるので古墳とは呼べません。

更に、岡山の楯築遺跡は、一人の墳丘ですが、前方後円墳ではないので古墳と認められない(前方後円墳の原型ともいわれ、方部が2つの双方中円墳)、という論理のようでした。

前方後円墳のモデルとなったともいわれる岡山県「楯築墳丘墓」再現図

 

また、wikipediaを参考にすると、3世紀後半を境に呼び方を変え、区別していると説明されています。

これは箸墓古墳を基準にしていると思われ、それ以前は墳丘墓、それ以降を古墳と呼ぶようです。

 

纒向の地「箸墓古墳」

 

実際は箸墓古墳の在る纒向遺跡には、箸墓古墳以前の纒向石塚古墳・纒向勝山古墳・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには造られていた事がわかっています。

この事実から、古墳の形や発展、社会の動きや時代を基準に墳丘と古墳を分ける明確なラインはないと考えますが、教科書や新聞では、はっきりと分かれているようです。

墳丘墓と古墳を分けているのは、古墳時代という名前です(教科書では箸墓古墳です)。

初現期については諸説あり、意見が割れていますが、極論で分けてしてしまえば、古墳時代に作られたのが古墳で弥生時代以前に作られたものが墳丘墓と呼ばれています。

 

楯築墳丘墓や四隅突出型墳丘墓などは誰もが弥生時代と認めるので墳丘墓と成るようですが、纏向にある箸墓以外の5つの墳丘を持つ墓は3世紀代を古墳時代に含めるか、箸墓以降を古墳時代とするかの見解が割れているので、人によっては古墳と言い、人によっては墳丘墓と呼んでいます。

ただし、教科書的には従来からの箸墓古墳以降を古墳時代とするという見解を取っていますので、箸墓よりも古いものは墳丘墓、箸墓より新しいものは古墳と分けて記載しているようです。

 

中高生の古墳時代の教科書に箸墓古墳以外の纒向遺跡の古墳が個別に名前で出て来た事実は無いと思います。

古墳としての基準は「定型化(前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等)」といいましたが、この条件をいろいろ調べていくと古墳時代でも小さい古墳や地方の古墳だと整合性の無い物が多く現れ、基準や定義だけから古墳と墳丘墓を厳格に区別するのは事実上無理だといえます。

 

私としては、「楯築墳丘墓は埋葬者は一人だが、前方後円墳でない上に弥生時代の物だから古墳と認めない」という考え方は、明らかに間違っていると思います。

「古墳」というものが王権の象徴と考えたうえで、弥生時代とは全く異なる社会的な意味がある物なのだということを強調し明確化するために、用語が「墓⇒古墳」と変えられているのだと思います。

 

基本的に箸墓古墳以降の物は全て古墳(人数が二人の野口王墓や藤ノ木古墳は個人墓では有りません)と呼ばれます。

一方纒向遺跡の5古墳(看板には古墳と表記)や楯築遺跡は、箸墓古墳より古いですが、古墳と呼んで差し支えないと思います。

墳丘墓と呼ばれるのは、明らかに弥生時代のもので(移行期は個々に選定する。)、なおかつ現代の○○家代々の墓、に相当するものです。

前回私が四隅突出墓(墳丘墓)を古墳と書いたのは使用間違いだったわけですが、私的には固有名詞としての古墳ではなく、古い墓の意味で使用したつもりだったのです。

正に、古墳ですね(^人^)

古墳の魅力についてはまた別の機会に力説したいと思います。

 

先日「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の世界文化遺産登録の関係も考慮されたのか?大仙古墳(仁徳天皇陵と治定)の調査が宮内庁と堺市で行われました。

本当に大仙古墳に眠るのは誰なのか?世界一の規模を誇る墓の主のミステリーに私の心臓はバクバクしています。

生きているうちに結果が知りたいものです。

大谷吉継の男気に惚れた!

大谷吉継の人物像と武将としての能力、活躍について

さて私の押しメンは数多いですが、今回は大谷吉継を推薦させていただきます。

有能な官僚の一面を持ち、裏方仕事に不平を漏らさず、知略・武勇にも優れた万能型秀才!

秀吉に仕えてしばらく馬廻りを勤めていましたが、天正11年の賎ヶ岳の戦いでは、七本槍に劣らぬ活躍を見せています。

天正13年には紀州攻めに参加し「根来寺焼討太田責細記」によれば、頑として抵抗する杉本荒法師を槍で突き伏せたとされています。

 

『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』 大谷吉継の錦絵

 

秀吉が「100万の軍勢を自由に指揮させてみたい」と述べた逸話がありますが、秀吉の政権下では、文治派として石田三成らとともに豊臣家の屋台骨を支えました。

天正14年~15年の九州平定では、石田三成や長束正家らとともに兵糧奉行に任じられ、30万人の兵糧米と軍馬2万匹の飼料それぞれ1年分の出納や輸送を担当し、ほとんどミスなく処理しています。

パソコンもスマホもない時代ですから、まさに驚愕の事務処理能力です。

堺政所の奉行に石田三成が任じられると、その補佐役となり、堺を掌握するとともに兵站基地としての整備を進めます(自身ものちに奉行の任に当たっていますり)。

後年、江戸時代には堺奉行が置かれますが、これは堺そのものの都市機能もさることながら、秀吉政権下での堺運営成功の結果であるといえるでしょう。

 

文禄元年に開始された朝鮮出兵においては船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを担当しています。

同年6月には石田三成・増田長盛らと共に渡海し、諸将の指導と戦況報告を行います。

明との和平交渉でも、明の使者を連れ添い一時帰国し、名護屋城で秀吉と使者との面会を実現させるなど、行政官僚としての実績には目を見張るものがあります。

 

関ケ原祭り時の「大谷吉継図」(信長の野望でも有名なイラストレター長野剛作)

 

関ケ原の戦いでの吉継

1598年に豊臣秀吉が無くなると、徳川家康はあからさまに次の天下を狙い始めます。

1600年、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張し、上方の兵を率い上杉討伐を進めます。

徳川家康とも懇意であった大谷吉継は、所領地である敦賀や、自らが代官を務める蔵入地から兵を集め、3000(1000とも?)を率いて討伐軍に参加するべく出立します。

途中、徳川勢に合流すべく、7月2日美濃国の垂井に差し掛かった際、失脚していた石田三成が遣わした使者・樫原彦右衛門が訪問し佐和山城へ招待されます。

ここで、親友の石田三成から徳川家康に対して「挙兵」するという重大決意を明かされることになります。

これに対して大谷吉継は、3度にわたって、徳川家康に勝つ見込みの薄いことや、石田三成の人望のなさを指摘し「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するも叶わず、いったん7月7日に帰陣しています。

垂井の宿で3~4日考え抜いた大谷吉継は、石田三成の固い決意と熱意に答え、やるからには勝利をもたらそうと判断し、7月11日に佐和山城に入り、平塚為広や、大谷吉勝・木下頼継ら息子達と共に石田三成に協力し西軍に加わっています。

 

私は、徳川家康を最も知る男といわれる大谷吉継ですから、ある程度の勝算があったのではないかと考えています。

この時、すでに大谷吉継は病気(ハンセン病だといわれています)の進行の為、盲目であったのをもちろん承知で、石田三成は喜んで、家臣の島左近、蒲生備中らを紹介したとされ、7月12日には大谷吉継、石田三成、増田長盛、安国寺恵瓊と作戦会議を行っています。

西軍首脳の1人となった大谷吉継は、7月14日に敦賀城に帰還するとすぐさま、東軍の前田利長を牽制するため越前・加賀における諸大名の調略を開始します。

その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を西軍に取り込むことに成功しています。

 

7月26日に前田利長が25000の大軍を率いて南下開始すると、大谷吉継は「海路にて加賀へ派兵した」との偽情報を流して、前田利長を動揺させ、前田勢が撤退するところを8月3日丹羽長重に攻撃させました。

この結果、25000の前田利長は関ヶ原の決戦に間に合っておらず、西軍にとっては隠れた大きな勝利であり、大谷吉継の戦術がいかに優れていたかを物語っています。

 

戦況は8月23日、徳川家康勢が岐阜城を攻略します。

石田三成の出兵要請で、9月2日(又は3日)に脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、戸田勝成、赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出し、9月15日、関ヶ原の戦いに突入します。

前日9月14日家康本陣赤坂での小競り合い(杭瀬川の戦い)に勝利した西軍は島津義弘の夜襲策を検討するも却下されています。

私は、西軍が勝利を納める瞬間がこの時にあったと考えています。

家康の首だけを狙いもし成功すれば、豊臣秀頼の名の元混乱を収束させる作戦です。

 

9月15日午前8時関ヶ原布陣図

 

大谷吉継は関ケ原合戦の前日、同行が怪しい小早川秀秋の陣に赴き、裏切らないように促しましたが、煮え切らない態度に疑念を感じ、小早川隊の松尾山の北方・藤川台に布陣しています(北側、小早川隊正面に当ります)。

時すでに小早川秀秋は、黒田官兵衛の調略を受けていたといわれます。

 

大谷吉継の陣から見える小早川秀秋の陣「松尾山」

 

石田三成も深夜に松尾山を訪れて「豊臣秀頼が15歳になるまで秀秋の関白の地位を保証する」といった内容の起請文を発行し、裏切り防止に最大限の配慮をしていました。

大谷吉継は精鋭600を率いて、大谷吉勝(2500)・木下頼継(1000人)ら大谷一族、戸田勝成(540人)、平塚為広(360人)と、合わせて5700で布陣します。

大谷吉継は病気で崩れた顔を隠すため、浅葱色(あさぎいろ)の絹の布を綿帽子のようにスッポリかぶり、練り絹の上に群れ飛ぶ蝶を漆黒で描いた直垂を着用し「輿」に乗って、自らの軍を指揮しています。

午前中は寺沢広高隊を蹴散らし、宇喜多勢の救済のため東軍の藤堂高虎(2500)、京極高知(3000)と奮戦しています。

藤堂隊・京極隊を引き付け、戸田隊・平塚隊が藤堂隊・京極隊の側面から背後に回り込み、巧みに攻撃しました。

 

石田三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦していない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げ、島津隊に八十島助左衛門を使いに出し応援要請しますが、島津隊は動きません。

西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは、宇喜多、石田、小西、大谷の33000ほどでしたが、驚くことに戦局をやや優位に運んでいました。

 

この間、大谷吉継もまだ動かない小早川秀秋に使者を送り、東軍へ攻撃を開始するよう促しますが、やはり無駄に終わります。

島津は応援要請を拒否し(島津義弘の兵は500といわれ戦況に影響を与える力が無いと考えたのかもしれません)、正午頃、東軍による威嚇射撃を合図に松尾山に布陣していた小早川秀秋15000が東軍に寝返り、大谷勢の横腹を攻撃します。

この時大谷吉継は、小早川秀秋の裏切りに備えて温存していた直属精鋭600で迎撃しています。

更に前線から引き返させた戸田勝成・平塚為広と合力し、不利な兵力ながらも小早川隊を500メートル押し戻し、2~3回と繰り返して、追い返し、小早川勢は370が戦死、大谷勢も180の死傷者が出ました。

その激戦ぶりは東軍から小早川勢の「監視役」として派遣され、本来なら安全な場所にいたはずの奥平貞治も重傷を負った(後に死亡)ことからも伺えます。

大谷勢の戦いぶりは目覚しく、遠くから見ていた島津勢の曽木弥次郎は「比類なき様子に候つ」と語った記録が残っています。

 

しかし、同じく小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂安治990、朽木元綱600、赤座直保600、小川祐忠2100の4隊4200が、西軍不利と見て東軍に寝返ってしまいます。

これはさすがに想定外であり、大谷勢は前から東軍、側面から脇坂・赤座・小川・朽木の4隊、背後から小早川と、合計20000近くの敵兵により包囲・猛攻を受けることに成ります。

戸田勝成は、織田有楽斎の長男・織田長孝勢と応戦するも、織田長孝の槍を頭部に受けて討死、平塚為広も孤軍奮闘しますが、小川祐忠の家臣・小川勘助の隊下の樫井太兵衛に討たれています。

 

大谷吉継は目が見えない為、湯浅五助に「負けになったら申せ」と、合戦中、再三「負けか」と問いかけています。

湯浅五助は「未だ」と繰り返し続けます。

父・危うしと大谷吉勝と木下頼継は救援に向かうおうと部隊を後退させる指示を出しますが、混戦の中で兵は撤退と勘違し大谷吉勝や木下頼継らの少数が防戦するのみとなり、壊滅してしまいます。

敗戦が明らかになると湯浅五助は「御合戦御負け」と言い、大谷吉継は輿から体を半分出して自ら脇差で腹を突き、湯浅五助に介錯させ自刃します(享年42歳)。

 

大谷吉継の墓 「関ケ原」に唯一の武将の墓といえます

 

大谷吉継の敗北が西軍に伝わると、西軍の諸隊は動揺し、西軍潰走の端緒となりました。

自害した大谷吉継の首は側近である湯浅五助(湯浅隆貞)により関ヶ原に埋められ、発見されることはなかったとされています。

異説では切腹した大谷吉継の首を、湯浅隆貞の家臣・三浦喜太夫が袋に包んで大谷吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から脱出させ、自身は切腹して果てます。

祐玄は滋賀県米原の地に、大谷吉継の首を埋めたと言われ、首塚も建てられているようです。

 

大谷吉継は恩義を大切に、まっすぐな古くからの友と忠義を全うし、最後の大舞台として勝利をもたらそうとしました。

智勇兼備で人望も厚かった名将の最後は、治る見込みのない重い病気で、明日をも知れる命を親友石田三成とともに豊臣再興を願い巨魁・徳川家康に戦いを挑みました。

そんな、大谷吉継の心意気は多くのファンを魅了してやみません。

西軍の1万石以上の大名で、関ヶ原の戦いの地にて死を選んだのは、秀吉最期の懐刀と呼ばれた大谷吉継ただ1人だけです。

 

大谷吉隆と記載されていますが「吉継」の墓です 寄り添うように左に湯浅五助の墓があります

 

いかに大谷吉継の影響力が大きかったかという逸話が残されています。

東軍勝利の報告を聞いた家康が最初に向かった地は、石田三成の陣地やその他西軍諸将の陣ではなく大谷吉継の陣だといわれています。

「天下分け目の関ケ原」正にその名にふさわしいドラマティックな場所です。

最後に一言

市郎右衛門
さて皆さん、三番目の「フィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)」と四番目の「お気に入りの時代と人物をつくろう」はどうでしたか?
皆さんも「映画やドラマ」、「本やゲーム」などで興味を持っている時代や人物がいるはずですね。
その人物が実際に歩いた場所を訪れて、同じ地面を歩いてみましょう。
より一層「映画やドラマ」を見たり、「本やゲーム」を読む(遊ぶ)場合の感情移入や理解度がUPして、数倍楽しめるのは間違いありません。
フィールドワークは歴史理解の最終兵器といえますよ(笑)

天下を分けた関ヶ原の戦いから15年後、大坂夏の陣によって豊臣家は滅んでしまいます。

 

徳川の世の中になって約250年後、1868年戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦いが起こります。

この戦いを主導したのは天下分け目で西軍となって敗北を喫した毛利氏・島津氏の薩長軍だったことは歴史のいたずらだったのでしょうか?

 

250年のなだらかな川の流れの後に激流が待ち受ける、歴史はストーリーです。

選択を間違えると辛苦をあじわうことになりますが、チャンスは必ずもう一度やってくる。

歴史の面白さ66%分かっていただけたでしょうか?

さとね
③④を先に読まれた皆さんは、下の【続編記事リンク】から①「通説・定説は信じるな!」②「ifをもっと楽しもう」をご覧いただけます。
是非、最初の記事も読んでくださいね~~~!さとねのオ・ネ・ガ・イ。

 

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