「市郎右衛門」の新ブログ99%歴史が好きになるブログ「高天原の縁側日記」を皆様に楽しんでいただきたいと思います。

さて、最初に読んでいただきたいのは【永久保存版】歴史を120%楽しむための6つのルールと題した前編①②、中編③④・後編⑤⑥です。

歴史に詳しくない方々にも、歴史が好きになって楽しめる方法の指南をさせていただくためです。

まずは、私の大好きな歴史や文化を、皆様に面白く理解していただくための6つのルールをご紹介いたしましょう。

  1. 通説・定説は信じるな!
  2. ifをもっと楽しもう
  3. フィールドワークに学べ(現地に足を運ぼう)
  4. お気に入りの時代と人物をつくろう
  5. 歴史は勝者が創ると知れ
  6. 過去を知れば未来の人生が変わる

これからお話する上記の6つのルールを心に留めて、歴史の学習や古墳・神社・お寺・城や史跡巡りなどの旅行に出かけるさいの参考にしていただけましたら、新しい視点で歴史を楽しむことができると確信しております。

なぜ99%歴史が好きになる?なのだとお思われるかもしれませんが、そこは日本人ならではの「謙譲の美徳」です。

100%では、糊しろがないのでこれ以上面白いブログを書くことができなくなってしまいますよね~(笑)

ここで示した6つのルールを実行していただけましたら、99%の方々は必ず歴史が好きになりますし、歴史を通して自身の未来も足を踏み外さずに進むことができるはずです。

是非【ブックマーク】して頂いて、このブログから楽しい歴史(過去への教訓の旅路)へ旅だって頂けましたら幸せに思います。

初回にお贈りいたしますのは、6つのルール「前編①②」です。

それでは、『市郎右衛門』のブログをお楽しみください。

最初のルール 定説・通説は信じるな!

最初のルールは、通説・定説は信じるな!です。

皆さんは邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったとお考えですか?

「邪馬台国は九州に決まっとるばい」と思われている方もおられるでしょう。

「何ゆうてるん!和(やまと)=邪馬台やん、もちろん奈良に決まってるやんか」とお考えのかたもいらっしゃるでしょう。

纒向の地「箸墓古墳」

先日、奈良県の纒向遺跡を訪ねた私は、簡単に九州説を大和説に変更してしまいました。(笑)

私が歴史を研究する学者だとしたら、そうは簡単に意見を変える事は出来ません。

私がフィールドワークを大切にしているのには、やはり自分の目で見て感じたことが自身の確信を強く前に押し出す力になるからです。

皆さんも自分の五感をフルに使って、現地での「歴史の謎解き」に挑戦してみませんか?

歴史書で読んだ「通説・定説」は確かに成る程~!と納得させられますが、「百聞は一見にしかず」の言葉の通り自分の足で歩いた現地の印象は、読書の100倍以上のイメージをふくらませる指標となることは間違いありません。

邪馬台国九州説・畿内説、当然どちらかの学者は嘘つきだ!

私「市郎右衛門」は、ワンパク坊主でした。

ご多分に漏れず、野山を走り回り、昆虫や魚とりに夢中でした。

勉強は意外に得意でしたが(笑)、標本石を拾いに行ったり、化石を探したりと自然が大好きな少年「市郎右衛門」が、一番夢中になったのが土器拾いです。

実は、小学校が但馬国分寺跡のすぐそばに位置していた関係で、発掘作業の現場に遭遇することがたびたびあったのです。

田畑の地下3m程から発掘された瓦や木片は、子ども心に「黄金のお宝」のように感じられました。

秘密の場所には土師器の破片がザクザク(笑)

先日実家に帰省したおりに、童心に帰って「秘密のお宝」が眠る野山に45年ぶりに土器拾いに行ってきました。

当時、葡萄畑だった農地は今は牧草地に変わっていましたが、ほんの10分も探すとそれらしき「土師器」のかけらがいくつか出てきました(ちなみに場所は、ヒ・ミ・ツ)。

小学校卒業時、私の将来の夢は「歴史学者に成りたい」でした。

現在、なぜか理系の大学を11年間もかかって(留年5回の大学記録ホルダー)卒業し、試験管を毎日洗って顕微鏡ばかり覗いている私、(どこで間違えたんだ~?(;;))。

「邪馬台国九州説・畿内説、当然どちらかの学者は嘘つきだ!」と失礼な暴言を見出しにしているわけですが、これも事実だといえます。

真実は一つしか無いわけですから、九州に邪馬台国が存在していたのなら、畿内説を唱える学者の先生方は嘘つきということになりますし、その逆もまた同じことがいえます。

ただ、邪馬台国が卑弥呼とともに移動して両方に存在した場合は、不肖「市郎右衛門」頭を丸めて懺悔することをお約束させていただきます。

もう考古学だけで歴史を語る時代は終わった?

近年になって歴史は歴史学・考古学だけではなく、宗教学・言語学・民俗学からのアプローチや、遺伝学や気象・地質学等の分野から新たしい情報がもたらされ、研究されるようになりました。

これらの研究により、新しい事実が掘り起こされていることも、歴史の定説を覆す新しい発見につながっていることはとても面白いと思います。

縄文海進(縄文時代は温暖化により海面が2~10m程上昇しました)などの自然現象が日本神話とマッチしている点などは、私的には大変興味深いと考えます。

もちろん「山城」「摂津」「播磨」「大和」「丹波」「淡路」等は、自宅(神戸)からも近いので当たり前にがっつり注目ですが、私が特に注目しているのは実家のある地元、山陰地方「出雲」「伯耆」「因幡」「但馬」「丹後」等の日本海沿岸の国々と、「吉備と総称される(備前)(備中)(備後)」の国々です。

九州の皆さんには申し訳ないのですが、遠くてフィールドワークを行えていません(金銭面でも苦しいです・笑)。

しかし今後は九州や中部・関東、東北等にもどんどん足を運んで取材したいと思います。

わたしのブログで皆さんを歴史の虜にして見せます(笑)

皆さんは、ヒストリー(History)という言葉が、ストーリー(Story)と同じ語源だとされていることをご存知でしたか?

歴史は、『現在も執筆され続ける壮大な時の流れの物語』です。

卑弥呼はどこに?

その大河を遡り、禁断のifを推察する、スリルに満ちたエンターテイメントです。

早い流れのむこうや落差ある滝の裏、深い河淵の底や切り立った岩肌の上は、未だ解明されない多くの謎に満ちています。

この、「大長編スペクタクルストーリー」に魅了されない人はいないですよね?

1986年に公開されたミヒャエル・エンデ原作の「ネバーエンディングストーリー」という映画をご存知でしょうか?

そうです歴史そのものがネバーエンディングストーリーなのです。

映画「ネヴァーエンディングストーリー」

たとえ、私たちがいつか死んでしまってもこの物語は終わることがありません。

歴史は、私たち人類(生物とも言えますが)の壮大な物語なのです。

だからこそ、これまでに起きた事実はしっかりと研究して謎が有るならば、皆さんと一緒に解き明かしていこうではありませんか。

二番目のルール ifをもっと楽しもう

信長が「本能寺の変」の謀反で死ななかったら

本能寺の変が起きなかったらどうなっていただろう?歴史が好きな人ならだれでも考えるクエッションだと思います。

ゲームソフト会社コーエーテクモゲームスさんが販売されている「信長の野望」シリーズは、私も大のファンです。

コーエー「信長の野望」最新版 太志

若い頃は夢中になってやっていましたが、日本史の謎の中で誰もが知りたいTOP3は以下の3つだそうです。

これらすべてを私が取材して、皆さんが納得する結論を引き出して見せますので楽しみにして下さいね。

  1. 本能寺の変    34.6%
  2. 邪馬台国と卑弥呼 10.7%
  3. 坂本竜馬暗殺   9.4%

題名でも上げたように、日本史の謎NO1本能寺で信長が暗殺されなかったとしたら?

その後の日本はどうなっていたと思われますか?

信長の全国統一は成し遂げられたのか?

織田信長の天下統一過程に随分時間がかかっていたイメージがあると思うのですが、それは1580年(本能寺の変は1582年)以前の織田軍進攻イメージではありませんか。

1580年までは、本願寺一向一揆をはじめとして、浅井家・朝倉家、武田家、上杉家、毛利家などの有力戦国大名が「反信長包囲網」を結成し、四方八方から信長軍を攻め立てたために、織田軍は思うように侵略スピードが上がりませんでした。

しかし、1580年頃までには上杉謙信が亡くなり、本願寺とも和睦が成立し「反信長包囲網」は完全に崩壊します。

この時点で誰も信長をとめられる者は居なくなり、侵略のスピードは一気に加速していきました。

全国統一(例えば織田幕府)を考えた時、後に豊臣秀吉が天下統一に所要した時間を逆算して考えればある程度可能性は大きかったのではないかと思います。

本能寺の変が起きた時点で、信長の天下統一はほとんど「目前」だったといえます。

織田軍は北国、関東、中国に兵を進め四国へは進攻寸前の状態でした。

信長が死んだのは1582年ですが、生きていれば大体1585年頃には、天下統一は達成されていたかもしれません。

「安土城天守跡」本能寺の変の後燃え落ちました「是非に及ばず!」

それでは当時の状況を少し整理して説明しましょう。

信長は死の直前に日本のほぼ半分を支配していましたが、その領土の半分近くは、1577年頃からの暗殺までの五年間で獲得したものです。

なぜ晩年になって突然織田軍の侵略スピードがスムーズに進んだのでしょう。

それは最大の強敵武将だった、武田信玄と上杉謙信の死によって、信長に対抗できうる勢力が居なくなったため、急激な勢いで織田軍の侵略が進むようになったのです。

さらに、信長の天下統一の最大の障壁であった、本願寺一向一揆勢力とも1580年に和睦が成立しています。

1578年に上杉謙信が亡くなると、上杉家では家督争いが勃発しました(景虎と景勝による「御館の乱」です)。

この時、北陸地方のほとんどを支配していた上杉家が、逆に滅亡寸前に陥りました。

本能寺の変の時点では、織田軍は上杉領のほとんどを奪取し、上杉の本拠・越後も3方面から信長軍の猛攻を受け、あと一年持たない程の状況でした。

天正10年(1582年)本能寺の変の直前に、甲斐・信濃・駿河・上野の広大な領土を支配していた武田家も、織田・徳川・北条勢による甲州征伐により、わずか1ヶ月ほどの電撃戦で滅亡し、全領土が織田・徳川の支配化に変わりました。

現在の本能寺

越後と接する旧武田領はことごとく織田領となって緩衝地帯が消滅し、上杉家は全方向を敵に囲まれることになり、これまで戦ってきた北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆に加えて、信濃からは森長可、さらに関東の上野国も織田領になったので、信長は配下の滝川一益に大軍を与え「関東平定軍団」を編成し、送り込んでいます。

上杉家は崩壊一歩手前まで追い詰められていたのでした。

関東南部を支配する北条家は、信長に恭順する姿勢を見せていたので、上杉が破れ滝川一益が残りの北関東(下野・常陸)2カ国の制圧を完了すれば、関東は完全に信長支配下に落ち着く体制になっていました。

制圧に必要な時間は、1年もあれば充分というところでしょうか。

もし関東が完全制圧されれば、奥州の諸大名も遠からず織田の軍門に下るか、抵抗する勢力があったとしても1年間持たないと思えます。

すでに伊達家は信長に恭順の意向を示していました(やんちゃな伊達政宗はまだ家督を継いでいません)。

よって関東および奥州の平定には、多く見積もっても2年あれば充分という情勢でした。

信長は一貫して、抵抗せずに降伏してくる大名は、領土を安堵して織田配下に組み込んでおり、関東・奥州の諸侯が抵抗しなければ、東国の平定はスムースに進んだ可能性が大きいと考えます。

次に西国についてはどうかと言うと、本能寺の変の時点で、中国地方の覇者・毛利家は、信長に降伏する寸前まで追い詰められていました。

私「市郎右衛門」も備中高松城跡にフィールドワークに行って来ました。

備中高松城の水攻めでの毛利家と信長軍の「中国方面軍団長」羽柴秀吉との和睦は、ほとんど「降伏」に等しい条件でした。

割地を河辺川(高梁川)と八幡川以東の割譲(備中・美作・伯耆の3か国)とし、清水宗治自刃を和睦条件として提示しました。

「信長死す」の情報の中でも秀吉が譲ったのは出雲・備後だけでした。

毛利方はやむなくこの条件を受け入れ、和睦が成立しています。

備中高松城跡「清水宗治首塚」

また四国についても、信長の息子、織田信孝を総大将とする「四国制圧軍団」の編成が既に行われており、実際に大阪に1万5千の兵力が結集しており、出陣間近でした。

四国東部の三好家は既に信長に服属していたので、四国統一にも1年掛からなかったかも知れません。

残るは九州だけですが、北部の大友家・龍造寺家とも信長に服属の意向を伝えており、敵対勢力は南部の島津家だけでした。

秀吉の四国・九州征服の所要時間を考えても、四国上陸から九州上陸までは1年程度でしょうから、どんなに抵抗が激しくとも、1585年には信長の天下統一は達成されていたと考えます。

こうして状況を考察してみると、信長が本能寺で倒れた1582年の時点で既に、越後・関東・中国・四国にいたるまで、信長の侵略計画はまさに強力に進行中でした。

ましてや毛利家も降伏寸前、北条家にも抵抗の意志がない以上、信長に抵抗できる勢力は完全に皆無でした。

信長自身も、近々に朝鮮や明国へ侵攻するつもりだったようですから、天下統一はあと数年で完成すると、本気で考えていたと思われます。

「敵は本能寺にあり」光秀の丹波亀山城跡

だからこそ(信長の天下統一が目前に迫っていたからこそ)、信長に天下統一をさせたくない政治勢力が「これはまずい」と、織田家の内乱を画策し明智光秀に本能寺を襲わせたのではないでしょうか?

それはでは陰の役者は誰なのでしょう。

公家や朝廷、前将軍の足利義昭から徳川家康から羽柴秀吉に至るまで、明智光秀の黒幕(共謀)説は数知れずあります。

2014年6月には、信長が四国は長宗我部元親の自由にさせるとの方針から一転、一部しか領有を認めないと変更するも、元親は領土問題は信長の命令に従う意向を示した内容の手紙が見つかりました。手紙は明智光秀の家臣斎藤利三に宛てたもので、所蔵する林原美術館(岡山市)と、共同研究する岡山県立博物館が発表しましています。

2017年9月には、「本能寺の変」で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生・三重大教授が発表しました。

先日の2018年11月には、信長の重臣、柴田勝家が、明智光秀に信長が討たれた「本能寺の変」の8日後に、織田方の武将に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかっています。資料によると勝家は、本能寺の変直後の明智光秀の動向を掴んでいなかったことがわかりました。新しい資料も続々と見つかっています。少なくとも、柴田勝家は黒幕や協力者では無いようです。明智光秀の心中を考えると面白いですね~。

火縄銃の数がはんぱないって!

さてもう少しifの世界を楽しんでみましょう。

当時世界一の銃保有国だった日本、その数「数十万丁」世界一といっても過言ではありません。

信長が北京を都にしたかも?なんて夢の膨らむお話も出来ます。

ただし…

アルマダの海戦を描いた『無敵艦隊の敗北』(フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ ) 画。

さて、ちょっと比較が変則的になりますが、本能寺の変とほぼ同時代1588にイギリスとスペインのあいだでおこなわれたアルマダ海戦をご紹介します。

スペインの無敵艦隊をイングランドとネーデルランド連合軍が打ち破った歴史的な海戦です。

このときは両軍合わせて230隻の戦闘艦が投入されましたが、この船に搭載された「大砲」は、両軍合わせてじつに4400門にもなります。

「大砲」が4400門ですよ、野戦砲が歩兵戦に大量投入されるのは、もうすこし先の話ですが、これほどの工業力、技術力があって、銃の量産が進まないというのは考えられないお話です。

このような事実から、日本が鉄砲を多数保有していたのは間違いありませんが、それ以上の説(信長の大陸進出)については創造が逞し過ぎるかもしれません。

後醍醐天皇が楠木正成の意見を取り入れていたら?

室町時代は教科書から消えていた

貴方のifが教科書を書き換えることだって有るのです。

2000年ころまでは教科書に載っていた「足利尊氏図」今はありません(別人有力)

建武2年(1335年)、中先代の乱(北条高時・鎌倉幕府第14代執権の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱)を討伐に向かった足利尊氏が、鎌倉で新政に離反、追討の命を受けた新田義貞を破って京へ迫ります。

楠木正成は北畠顕家らと連携し、足利軍を京より駆逐しました(尊氏はほうほうの程で九州に逃れます)。

九州に逃亡した尊氏ですが、1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得て大軍を率いて北上を開始します。

後醍醐天皇は、「湊川(神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じます。

「後醍醐天皇」歴代天皇の中でも特に尊敬しています

しかしながら、大軍の尊氏軍に勝つには策略が必要と、正成は策を帝に奏上します。

正成の作戦とは、正成が淀川の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めし、後醍醐帝に比叡山延暦寺に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から正成軍で敵を挟撃する作戦でした。

しかしこの案は、帝が都から離れるのをよく思わない公家たちの意見で却下されてしまいます。

正成が得意とした山中での奇策も同じく採用されませんでした(私的には六甲山でゲリラ戦も良い作戦だと思いますが…)。

失意の中、正成は湊川に向かって出陣します。

すでに後醍醐天皇の求心力は無きに等しく足利尊氏軍3万5千に対して、楠木正成軍は700だと伝わっています。

楠木正成湊川に散る!

大きな戦力の差を前に、正成は遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書きます。

「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」

彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈ったと思われます。

後醍醐天皇のファンでフィールドワークを行い足跡を追い求めた私としては、心痛いのですが…

5月25日、湊川で両軍は激突、海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいたとされます。

戦力の差は歴然でしたが、尊氏は戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移りませんでした。

3年前は北条氏打倒を誓って共闘奮戦した同志、尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと思われます。

しかしながら、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、自軍の損失を考慮した尊氏は、一斉攻撃を命じます。

6時間後、正成は生き残った72名(神社の札だと76名になります)の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃したと伝わっています。

正成は弟の正季と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺して自害したといわれます(享年42歳)。

足利尊氏側の記録『梅松論』は、正成の死をこう記しています「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」

延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季公以下一族と「七生滅賊(七度同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼそうぞ)」を誓われつつ殉節されたと伝えられる場所が、神戸市湊川神社境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟)

神社に申し出ると神社神官と一緒に殉節された場所まで行ってお詣りもできます(下の写真戦没地の門をくぐって50m程です)。

湊川神社(楠木正成自刃の地)

後醍醐天皇が楠木正成の意見を取り入れていたとしたら、正成はもう一度都を奪回し、足利尊氏達の武家を取り込んだ新しい中央政権が出来上がったかもしれません。

少なくとも、南北朝時代は教科書には載らなかったかも知れませんね。

坂本竜馬が暗殺されていなかったら?

坂本龍馬暗殺犯人はすでに分かっている

誰もが知りたい日本史の謎、第3位にランクインされていた坂本龍馬暗殺犯人ですが、実はもう特定されてます。

龍馬ファンが納得のいく犯人ではないために、事実を認めようとしないだけのようです。

犯人は自白までしています。

京都霊山護国神社「坂本竜馬と中岡慎太郎像」

その犯人というのは、京都見廻組(江戸時代末期に幕臣によって結成された京都の治安維持組織)です。

暗殺犯には諸説ありますが、証拠があるのはこの説だけで、歴史家の間でこの説を疑問視する者は誰一人いないそうです。

明治の早い時期に襲撃犯の今井信郎が自白しており、その供述書が公的文書として残っています。

京都見廻組の今井信郎(直心影流の門下に入り、20歳で免許皆伝講武所師範代、片手打ちという独自の剣法を編み出す)は戊辰戦争においては最後の箱館戦争まで戦い抜いています(なかなかの使い手です)。

明治3年(1870年)、箱館で降伏し囚われの身となっていた際に近江屋事件の糾問を受け、坂本龍馬暗殺に関わったことを自供しています。

裁判により禁固刑となりましたが、明治5年(1872年)特赦により釈放されています。

この時期に彼が龍馬の暗殺者を名乗るメリットは全くありませんでした。

今井自身も実行犯を戦死した佐々木只三郎であるとし、存命の仲間の名前は言いませんでした。

今井自身、自分は見張り役だったと証言しています。

手を下した(実行犯)と知れれば、命がないのがわかっていたからでしょう。

運よく彼は恩赦により生きて牢獄から解放されましたが、それが黒幕説を生む結果となったのだと思います。

坂本龍馬暗殺犯なのに刑が軽いのはおかしい、ということでしょうか。

ただ龍馬自身、当時はさほど有名でもなく、また暗殺犯を執拗に探していたのは龍馬と縁のある人間と土佐藩閥だけでした。

新政府の中で土佐はそれほど勢力があったわけでもなく、主流は薩長藩閥でしたから、薩長が龍馬暗殺犯だけを重罪にするわけにもいかなかったのでしょうが、龍馬ファンの皆さんは納得出来ないのかもしれません。

龍馬暗殺犯の嫌疑をかけられた新選組局長近藤勇に対しても、土佐の谷干城が極刑を主張したのを薩摩の有馬藤太は諌めたとも言われています。

結局、有馬が不在の間に谷が近藤を処刑してしまうわけですが、谷は生涯新選組説を信じて疑いませんでした。

谷は龍馬を尊敬していて、その龍馬があまり有名でもない今井に斬られたなんて許せなかったのかもしれません。

谷と同じ心裏が現在の坂本龍馬ファンにもあるのだと思います。

また、明治の後年になって今井は改めて自分が暗殺者であることを証言していて、その時には谷干城から売名行為だと非難されています。

谷にしてみれば、真犯人が新選組ではないと近藤処刑を強行したことは自分のミスになってしまいますし、やはり尊敬する龍馬が小物に暗殺されたのを認めたくなかったのだと思います。

どうしても今井が犯人というのは認められなかったでしょう。

しかし、何のメリットもない時期に公的に記録が残る場でも今井は証言しているわけですから、売名という指摘は当りません。

更にいえば、谷は明治政府で大臣の職を務める立場にいながら、龍馬暗殺犯の記録が残っていることすら知らなかったということになります。

その上、政府公認の暗殺犯が恩赦で赦免されたことすら知らなかったということになりますね。

ということで、皆さんの夢を打ち砕くようなお話になってしまったので、それでは坂本竜馬が暗殺されなければ、その後の日本の行く末はどうなっていたのでしょう?

少し考えてみませんか。

坂本龍馬が暗殺されなかったら?

坂本龍馬暗殺の地・河原町通り近江屋跡

坂本龍馬ファンにはまたもや申し訳ないのですが、私的にはそれほど新政府に影響は無かったと考えます(私も坂本龍馬は大好きですし尊敬もしています)。

竜馬暗殺は1867年10月ですが、その年徳川慶喜によって大政奉還はすでになされ、倒幕の密勅も発行されています。

さらに薩摩と土佐の同盟も結ばれていますね。

新撰組も坂本龍馬には関心は無かったようですし、八方美人でもあったため幕府の要人などとも接触があり、薩摩長州にとっては面倒な存在であった可能性があります。

新政府に参加されれば徳川は潰さない等の発言もあったようですので新政府に参加されて困るのは薩摩と長州です。

前章でも書いたように、龍馬自身当時はそれほど有名でもなく、維新三傑はおろか十傑にも名を連ねていません。

後に書かれた小説が彼を有名人にしたといっても過言ではないのかもしれません。

坂本龍馬については岩崎弥太郎と柴田錬三郎の創作が多いよな気がします。

何せ選挙で日本の指導者を決めるなどと公言していた龍馬ですから尊王の薩摩長州から見れば厄介者であったと考えられます。

新政府に参加した可能性が無いとは言えませんが、貿易(商売)の方に興味を示したと考えるのが妥当かもしれません。

ただ、三菱は「才谷屋」という屋号に成っていたかもしれませんね(笑)

最後に一言

歴史は難しいと思われている皆さん、「いい国作ろう鎌倉幕府=1192年」なんて覚えましたよね^^。

今の小・中学校では「いい箱作ろう鎌倉幕府=1185年」に変わっています。

源頼朝が征夷大将軍になったのは1192年ですが、1185年には守護・地頭を置き実質的な権力基盤を築いていたからです。

年号が苦手な方も多いはずですが、私のブログではそんなことは問題にしません。

最初のルールの章でも書いたように歴史は物語です。

つまり私のブログは、長い大河ドラマの○○回目をネタバレ説明するようなものです。

小説の時間軸を気にしなければいけないのは、松本清張の時刻表トリック「点と線」か名探偵コナンの時間トリックの殺人事件くらいです。

平安時代に貴族の力が弱まって武家政治に転換していく物語の登場人物が、平清盛であったり源頼朝な訳です。

細かいことは気にかけずに、物語を楽しんでいただきます。

私と一緒にタイムカプセル(古墳・神社・寺・城等)に乗って自分たちの先祖物語を楽しみましょう。

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

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