
今回ご紹介するのは、「本能寺の変」実際の舞台となった旧本能寺跡です。
織田信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たします。
そして京都では居館を構えず、妙覚寺や本能寺を宿所としていたといわれています。
影の役者は誰だ?と題名を書きましたが、私は光秀本人の考えだと思っています。
陰謀説は色々とありますが、あの切れ者の光秀が謀反に及んだ過程にはやはり勝算があったからだと思います。
信長も「是非もなし!(仕方ない)」といったと記録されています。
いまからワクワクしますよね~!
目次
旧本能寺はどこにあった?
少しずつ調査が進んでいます。
京都の工事は何かしら遺構が出てくるので、調査で工事が止まることがよくあるそうです。
長い間京都に地下鉄が無かったのもそのせいだといわれています。
本能寺跡の所在については、元本能寺町や本能寺町の町名などから、これまで旧京都市立本能小学校付近と推定されていました。
平成4(1992年)に小学校の廃校にともなって行われた発掘調査により、織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されて話題を呼びました。
現在では石柱が建立されているのが南側の端で、南は蛸薬師通、北は三条通、東は西洞院通、西は油小路に囲まれた区域とする説が有力視されています。
上記の四つ通りを囲む地域が本能寺の敷地だと考えると、寺の大きさも東西約100m、南北約200mの大きな規模を有していたものと考えられています。
現在は京都市立堀川高等学校本能学舎や高齢者福祉施設本能(京都市が設置し指定管理者が運営)、カフェ「信長茶寮」などになっています。
平成19年(2007年)マンション建設に伴う遺構調査が行われました。
なんと「本能寺の変」で焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡の泥の中から見つかっています。
現在の本能寺にGO!
現本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。
本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭があります。
法華宗とは、日蓮を開祖とする宗旨の名称または、宗旨「日蓮宗」の別称です。
日蓮門下の全門流の総称としての呼称でも有ります(ちょっと難しいよね~!)。
1334年に後醍醐天皇より日像が宗派の名として法華宗の宗号を賜ったといわれています。
我が家は日蓮宗ですが、本門流では無いのでよくわからないのですが(-"-;A ...アセアセ
分裂する法華宗
全体派と後半重視で分裂
法華経を構成する二十八品(28章)を前半の「迹門」、後半の「本門」に二分し、本門に法華経の極意があるとする考え方の派閥ができて分裂します。
本能寺は法華宗本門流の大本山ですからこの派閥に入るわけですね。
後半の「本門」に極意があるとする派閥を勝劣思想の勝劣派と呼びます。
難しいよね~、説明している私が理解してない部分も多いのですから...
次の問題は、勝劣派の中で本仏を、釈尊とするか日蓮とするかで意見の対立が有ります。
日蓮は釈尊の生まれ変わり?でまた分裂!
末法思想とは釈尊入寂後、年代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた仏教の予言思想のことです。
1500年~2000年といわれ、新しい釈尊に変わる人物が現れるという思想です。
法華宗ではそれが日蓮上人であるという考えに基づく宗派伐もあります。
旧本能寺辺りに移動再建!
永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めました。
そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めました。
本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用しています。
また現在「䏻」という文字に替えて使用していますが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌い、䏻を用いる字に替えたものです。
有名な信長が上杉謙信に送った「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれています。
写真のとおり、本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっています。
これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。
なお、この「䏻」は本能寺のために作字されたわけではなく、当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体だそうです。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けます。
寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していたようです。
応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めます。
天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難する事態が起きます。
日承上人と本能寺の変
天文16年から17年(1537-1538年)ごろ、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となります。
四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。
歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。
織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていました。
しかし、天正10年6月2日(1582年)、明智光秀の謀反「本能寺の変」が起きて、その際の兵火で本能寺は焼失しました。
「信長公記」では同寺で信長が自害したとされていますが、遺体は発見されず、その最期は明らかに成っていません。
光秀を破って京に入城した織田信孝(おだのぶたか・秀吉はいまだ影に徹しています)は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の首を晒させて供養しています。
7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じています。
「清洲会議」の後柴田勝家と連動したために秀吉と敵対して自害させられてしまいました。
現在の場所への移転とその後
本能寺は、天正19年(1591年)豊臣秀吉の命令で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられました。
現在の京都を作り上げたのは基本秀吉なのです。
伽藍の落成は、天正20年(1592年)でした。
現在も大きいですが、当時は御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。
元和元年(1615年)には、江戸幕府からも朱印地40石を与えられています。
戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の「本能寺末寺帳」によれば末寺92を数える大寺院になっています。
もっと有力な新事実も発見されていますし、次回がたのしみですね。
最後に一言
天明8年(1788年)の天明の大火、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失しています。
従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていました。
しかし、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もあります。
今日書いたブログの中でも7回にわたって焼けているはず?
「能」の字も「䏻」に変えたくなりますよね。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。