
歴史とともに寺社仏閣も紹介するブログです。
今日御紹介致しますのは、伯耆国(現鳥取県西部・大山町)「名和長年(なわながとし)」とその一族を祭る、建武中興十五社の一社『名和神社』をご紹介します。
伯耆の国は、山陰地方鳥取市辺りの因幡国と島根県東部に位置する出雲国の間、現在の米子市、倉吉市辺りと考えて下さい。

別格官幣社「名和神社」
二度お詣りさせていただきましたが、前回は本殿の改築が行われており、社殿がブルーシートで覆われ神社全体を撮影出来ず、御紹介出来ませんでした。
今回訪れますと綺麗に改修されておりましたので、御紹介させて頂きます。
名和長年は鎌倉時代末に隠岐国から脱出した後醍醐天皇を迎えて倒幕(鎌倉幕府ですよ!)に功があり、最後まで後醍醐天皇の御側で戦った武将の一人です。
今回は前回・前々回の流れを汲んで【後醍醐帝三部作】の最後の位置づけで、「名和長利」とその一族を祀る「名和神社」を紹介します。
合わせて神社近辺に点在する名和氏のお墓も紹介します。
それでは雨上がりの朝の清々しい「名和神社」をご覧ください。
目次
名和神社ってどんな神社なの?
鳥取県西伯郡大山町名和(旧名和町)にある神社です。
名和長年を主祭神として名和一族以下42名を合祀しています。
最寄りのJR駅は山陰線本線名和駅で神社まではすぐ、車なら山陰道名和インターを降りて10分ほどで到着です。
旧社格は別格官幣社で、建武中興十五社の一社です。
社紋は、名和氏の家紋の帆掛け船です。
別格官幣社って何?
神社の社格について
近代社格制度は、明治4年5月14日(1871年7月1日)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定されました。
その時、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分けられています。
伊勢神宮は、「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされました。

アイキャッチ画像でもご覧いただきましたが、綺麗な神社です
この近代社格制度は、昭和21年(1946年)2月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に廃止されています。
官国幣社は戦前の社格に基づいて設けられたものです。
官国幣社(官社)については、官幣社は国幣社よりも格が上とされ、それぞれ大・中・小の順に格が下がります。
『神道辞典』などによると、官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社となりますが、官幣中社と国幣大社はどちらが上かなどの明確な規定はありませんでした。
別格官幣社
後(明治の太政官布告の後)に、国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社のために別格官幣社が創設されました。
明治5年(1872年)に「楠木正成」を主祭神とする神戸市の「湊川神社」が初の別格官幣社に列格しています。

楠木正成を祀る、神戸「湊川神社」
別格官幣社は官幣小社と待遇は同じですが、国幣小社よりも上位とされた規定はありません。
なお、「菅原道真」を主祭神とする天満宮は天神信仰によって祭神は雷神と同一視されたため、「北野神社(現・北野天満宮)」と「太宰府神社(現・太宰府天満宮)」の2社が例外的に別格官幣社ではなく待遇が上となる官幣中社に列しています。
名和神社の造営
承応・明暦の頃(1652年~1658年)、名和長年の威徳を慕う地元の人々によって、名和邸跡とされる場所に小祠が建立されたのに始まります。
延宝5年(1677年)、鳥取藩主となった池田光仲が長年を崇敬し、名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿を造営して遷座し、山王権現を末社として「氏殿権現」と称しました。
明治初めの関係者の説明によると、神社の再興を志したのは光仲の子綱清で、毎年わずかな祭祀料をあてがっています。
幕末になって、藩主池田慶徳が従来の小祠のそばに碑を立て、祀主を任じようと考えますが、廃藩置県によって藩主の力が制限され阻まれています。
明治7年(1873年)に県社に列し、「氏殿神社」と改称されました。
明治9年(1876年)6月22日、鳥取県が、名和氏の功績は楠木氏に比肩するから県社にとどめず国幣社格にしてほしいと内務省に伺を提出します。
10月には氏殿神社の祀官糟谷末枝が教部省に、11月には池田慶徳が宮内省に、それぞれ別格官幣社にしてほしいと願い出ます。
さらに、12月16日に島根県が二人の請願を後押しする伺を教部省に提出します。
翌明治10年(1877年)の夏、池田慶徳は島根県庁から鳥取に至る道筋で氏殿神社に参拝し、その衰退を目撃して残念がりますが、志半ばで亡くなります。
11月28日に子の輝知が父の遺志を継いで社格を進めることを請願しています。
このとき既に内務省も別格官幣社に列する方針を固めており、輝知の請願を受けて太政官にその実施を促しました。
こうして明治11年(1878年)1月10日、「氏殿神社」の社号を「名和神社」に改定し、別格官幣社に列することを太政官が決定しました。

駐車場完備、説明版(看板)撮影が苦手です・笑

早朝の参道は人影なし!こちらは前回のお詣りの一枚、少しだけ工事車両とブルーシートが写ってます

綺麗な神門です

前回は気が付かなかったですが、しめ縄が有ります(取材は正月ではありません)

神門を反対側から、長年の人物を表すようなシンプルで穏やかな神社です

そして拝殿の工事も終了していました

「名和神社」御朱印一度目のお詣り時、神社と同じように至ってシンプルです
「名和神社」は、名和長年を主祭神とし、名和一族42名を合祀しています。
新しいブログになってから神社を取り上げてUPするのも初めてなら、御朱印をブログに乗せるのも、前ブログを含めても初めての試みなんですね。
大体、御朱印集めも趣味だったんですか?女性が多いと聞きましたけど...
男性というものは、何かしら収集癖が有るものだよ。
近頃は、御朱印のバリエーションが増えて「季節限定」とか、「年度限定」とかあってきりが無くなってきましたね。
寺社仏閣を巡る旅では、御朱印を集めるのはお守りを買うのと同じくらいの、ご利益も期待できるのです。
是非また御朱印集めについても、ブログに書いていこうと考えているので、さとね君も始めたらどうだい?
「後醍醐天皇」都に帰り咲く!
後醍醐帝の足跡
私「市郎右衛門」、僭越ではございますが、歴代の天皇の中でも五本の指に入る、後醍醐天皇ファンなのです。
後醍醐天皇の不屈の精神力と意志の強さに憧れております。
「間違って100年早くにお生まれに成ってしまった」と思うくらいに天才的な天皇だと心酔しています。
勿論、昭和天皇陛下、今上天皇陛下をご尊敬している事は当然なのですけれどね。
「後醍醐天皇」隠岐の島を脱出、伯耆の浜に降り立つ!

後醍醐天皇が浜でお座りに成られた腰掛石、リンクページではばっちりです。
元弘元年(1331年)の元弘の乱で鎌倉幕府の討幕計画が露見し、捕縛されて隠岐島に流罪となっていた後醍醐天皇が、元弘3年、正慶2年(1333年)閏2月、名和長年を頼って隠岐島を脱出します。
到着した場所とされるのが、この地「御厨屋(みくりや)」浜です。
その後、後醍醐天皇は名和長年と共に伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発しました。
御厨屋の意味は?
御厨屋は先日もご紹介した、後醍醐天皇が沖ノ島から戻られた場所で、漁港内に天皇がお座りに成られた「お座り岩」も在る、歴史ある場所です。
御厨屋という名前ですが、「御厨(みくり・みくりや)」から来ているのではないかと考えています。
御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意味で、神饌(しんせん・神に供える食酒)を調進する場所のことです。
本来は神饌を用意するための屋舎を意味しています。
御園(みその・みそのう)ともいわれます。
神饌を調理するための屋舎を意味していますが、神饌を調進するための領地も意味します。
古来神社は神田、神郡、神戸といった領地を持っていましたが、平安時代中期以降荘園が増え神社も権禰宜による自墾地系の地域の特産品を納めるかわりに神税を免除される御厨・御園という名の荘園を持つようになります。
その後、権禰宜の仲介で武士からの寄進地系の御厨・御園が増加していきました。
御厨屋もそんな土地の一つだったのかもしれません。
後醍醐天皇船上山に立つ!

まさしく天然の要害です
鎌倉幕府は船上山の後醍醐天皇軍を討つため、足利高氏(尊氏)や名越高家らの援軍を送り込みます。
しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は、所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻します。
5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧しました。
北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとししますが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられることになりました。
船上山で幕府軍に勝利した名和長年は、後醍醐天皇により伯耆守に任じらています。
また、後醍醐天皇の帰洛の際の護衛も務めています。
船上山に天皇を迎えて討幕活動に参画するまでのくだりは、『太平記』『梅松論』に詳細に記載されています(前回のブログでも紹介しました)。
幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された『建武の新政』において、河内国の豪族、楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、記録所や武者所、恩賞方や雑訴決断所などの役人を務め、帆掛け船の家紋を与えられました。

帆掛け船の家紋

神殿は横からの撮影が出来なかったので拝殿から失礼いたしました
また、京都の左京の市司である東市正にも任じられました。
これは名和氏の商業者的性格を重んじての人事と考えられています(現代なら東寺の弘法市も名和長年の仕切りですね)。
この役職は代々中原氏が世襲してきましたが、後醍醐天皇は強引にこのポストに長年を組み込み込んでいます。
自分の手足となって動いてくれる長年をこの役職に就任させることで、京都の商業・工業を直接掌握しようとしたと考えられます。
南北朝時代の始まり
建武2年(1335年)名和長利は、西園寺公宗が北条氏の残党と組んで新政を転覆しようとした謀略が発覚して逮捕されると、西園寺公宗を出雲国へ流刑する途中に謀って処刑しています。
また、討幕運動において京都の六波羅探題を滅ぼした足利尊氏と対立し、後醍醐天皇とも確執があった護良親王を結城親光とともに捕縛するなど、後醍醐天皇の先兵として活躍しています。
足利尊氏が「中先代の乱」の討伐を契機に、建武政権から離脱すると、楠木正成・新田義貞らと共に天皇方として足利尊氏と戦いますが、延元元年(建武3年、1336年)の湊川の戦いの後に京都に入った足利尊氏に敗れ討死してしまいました。
討死にした場所については、『太平記』には京都大宮、『梅松論』には三条猪熊とされています。
後醍醐天皇はこの後、京都脱出し奈良吉野へ移られ、京都と吉野に二人の天皇が居られることになりました。
この事件以降を「南北朝時代」といいます。
このあたりが複雑でわかりずらかったんです。
鎌倉幕府を倒した足利尊氏が征夷大将軍になって室町幕府を開いたなら簡単だと思うんですけど...
でも後醍醐天皇が奈良吉野へ移動したことで初めて、南(吉野)と北(京都)に天皇が両立する状態になったんだ。
だから、これ以後を南国朝時代と呼んでいるんだ。
中先代の乱(なかせんだいのらん)も簡単に説明しておきますね。
建武2年(1335年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱です。
建武政権の立役者「三木一草」って知ってる?
名和長年の死を以って、後醍醐天皇の恩寵を受け栄達した「三木一草」は悉く果てました。
「三木一草」とは、後醍醐天皇の建武政権下で寵遇を受けた4人の寵臣の呼称です。
楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕のの四人をあわせて呼びます。
名称の由来は、楠木は「クスノキ」、結城は「ユウキ」、名和は伯耆守であったことから「ホウキ」、千種は「チグサ」と4人の姓や官職名に因みます(わかりましたか?)。
『歯長寺縁起』は長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、その通り廷臣を相次いで喪った南朝は劣勢に追いやられてゆくことになって行きます。
名和一族の墓所

神社の近くに名和一族の墓所がありました

左から長年、義高、高光ですか?

さらに800mほど離れた場所に一族の墓がありました。
名和長年の菩提寺である長綱寺の裏山に、大小合わせて約300基の五輪塔があります。
これは「名和公一族郎党の墓」と呼ばれ、長年が船上山で鎌倉幕府軍と戦った時戦死した一族を祀ったもの、あるいは館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。
後醍醐天皇が都を追われ足利尊氏の天下になったとき、足利氏の家来によって墓を荒らされるのを心配した長年の子孫が見つからないように土中に埋められたいました。
昭和5年に地元の農家の人に発見、発掘されて現在の形に祀られています。
先生なんて呼ばれているのがはずかしいくらいだけれど、鳥取に単身赴任したおかげで自分が知りえなかった歴史を紐解いて遡ることができました。
最初は一つの点だとしても幾つかの点と点がつながることで線になり、より深く歴史の楽しさを知ることになった出会いに感謝しています。
食文化にも歴史があるし、フィールドワークの重要な要因だって言ってましたよね~先生!
次に山陰方面に出かけるときは、海鮮丼必ず食べますから...
ごちに成りま~~~~すw
最後に一言
名和長年や楠木正成の勤皇は明治維新の原動力となっていきます。
そんな歴史の繫がりもストーリー性を感じますね。
有名な神社でも良かったのですが、前記事・前々記事とリンクして「名和神社」をご紹介しました。
神社は何処でも凛とした空気に包まれるものですが、「名和神社」は特に空気の違いを感じさせられました。
参拝の方々もおらず、有名な神様でもない武将たちが祀られている神社ということで背筋が伸びる思いでした。

誰一人いない朝の「名和神社」、凛とした空気に心が洗われるようでした
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
絶賛ランキング参加中!二つのバナータグを「 ポチっと」クリックして応援お願いします。
|o´艸)。oO(Thank you)。
この記事が気に入ったら フォローしよう
最新情報をお届けします
Twitterでフォローしよう
Follow @ichirouemon19th