
天正10年6月2日(1582年6月21日)、有名な「本能寺の変」が起こり、戦国武将・織田信長が、家臣の明智光秀に殺されました。
明智光秀が織田信長を殺した理由には諸説あり、日本史史上最大のミステリーともいわれています。
今回は、数多くある説の中から、特に有力な7説をご紹介します
ぜひあなたも、私と一緒に、光秀が謀反を起こした原因を考えて、このミステリーを解き明かしてみましょう。
目次
明智光秀が織田信長を殺した当日の状況は?
明智光秀が謀反を起こした理由をお話しする前に、「本能寺の変」がどのように起こったのか、当日の様子を振り返ってみましょう。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、光秀は、織田信長に命じられて、13,000人の兵士を率いて、亀山城(※丹波国/現在の京都府亀岡市)を出陣しました。
出陣の理由は、備中高松城で毛利軍と戦闘をおこなっていた、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の支援のはずでした。
けれども、出陣してからまもなく、光秀は、突然意外なことを叫びます。
「敵は本能寺にあり!」
とても有名なセリフですが、実は、光秀が本当にこう叫んだかどうかは、定かではありません。
江戸時代に出版された、「明智軍記(あけちぐんき)」という本の創作だという説が一般的です。
また、光秀軍の兵士の記録によると、兵士たちは、信長を討ち取るという目的を、最後まで知らされていなかったようです。
信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた、とある兵士は書いています。
なにはともあれ、急に方向転換して京都に到着した光秀軍は、信長が宿泊していた本能寺を包囲しました。
光秀軍13,000名に対し、信長軍はたったの100名足らず。
信長は、家臣の森蘭丸らと奮戦しましたが、やがて敗北を悟り、寺に火を放ち自害します。
本能寺の変の原因を考えてみよう。
ここからは、本能寺の変の原因として、特に有力な7説をご紹介します。
- 信長への怨恨説
- 光秀野望説
- 恐怖心説
- 将軍指令・幕府再興説
- 朝廷関与説
- 四国攻め回避説
- 諸将黒幕説
あなたもぜひ、「どの説が本当だろう?」という視点で読んでみてくださいね。
信長への怨恨説
本能寺の変の原因として、もっとも有名なのが、「信長への怨恨説」です。
信長は、短気で激しい性格でした。
そのため、家臣の光秀は、日常的に、信長からつらい仕打ちを受けていたといわれています。
つらい仕打ちを受けた光秀が、信長を恨んで謀反を起こした、というのが、「信長への怨恨説」です。
それでは、光秀は信長から、具体的にどんなひどいことをされたのでしょうか?
特に有名なのは、次の3つのエピソードです。
- 酒席でのアルハラとパワハラ
- 大事な接待役をクビにされる
- 領地を没収するといわれた
酒席でのアルハラとパワハラ
お酒が飲めなかった光秀は、主人の信長から、よくアルハラやパワハラを受けたようです。
あるとき、光秀は信長から、大きな盃に入ったお酒を飲まされそうになりました。
光秀が断ろうとすると、信長は光秀の口元に短刀を突き付け、こう言い放ちました。
「この刀を飲むのと、酒を飲む方の、どちらを選ぶ!?」
結局、光秀は、無理やりお酒を飲まされてしまいました。
またあるとき、お酒の飲めない光秀は、こっそり宴会を抜け出そうとしたそうです。
それを見つけた信長は、「このキンカ頭!」と怒鳴りつけ、部下たちの前で、光秀を殴りました。
キンカ頭とは、「ハゲ頭」という意味です。
こういうハラスメントの積み重ねが、光秀の信長を恨んだ原因と言われています。
大事な接待役をクビにされた
天正10年5月15日(1582年)、本能寺の変が起きる17日前のことです。
信長は、武田家を滅ぼした手柄をねぎらうため、安土城に徳川家康をまねきました。
その大事な接待役に抜擢されたのが、明智光秀です。
光秀は、信長と綿密な打ち合わせを重ねながら、苦労して接待の準備をしたそうです。
しかし、接待当日になって信長は、光秀が用意した料理に、「腐っている」と因縁をつけました。
この料理の食材は、信長自身が選んで、吟味したものだったので、光秀はさぞかし理不尽に感じたことでしょう。
さらに信長は、光秀の接待役をクビにして、「今すぐ秀吉の援軍に行け」と命じています。
その直後に起きたのが、本能寺の変なんです。
もしかすると、光秀は、大事な接待役をクビにされたのを恨んで、信長を殺したのかもしれませんね。
なお、接待役をクビにされた理由については、「光秀が家康を暗殺するのを拒んだから」という説もあります。
戦国時代というのは、隙を見せると、いつ自身の首が無くなるかもしれない、物騒な時代だったんですね(;^_^A
領地を没収するといわれた
江戸時代の書物「明智軍記」によると、光秀は、秀吉の援軍に出発する前に、信長から、次のように言われたそうです。
「秀吉の中国攻めが成功したら、出雲・石見国(現島根県全域)の領地は、お前の領地にしてやろう。そのかわり、現在の領地である滋賀郡(※近江坂本/現大津市と高島市の一部)・丹波国は没収する。」
そこには、石見銀山(世界遺産)もあるので、信長としては、好条件のつもりで言ったのかもしれません。
けれども、光秀は、苦労して手に入れた滋賀郡や丹波国に、愛着を持っていたようです。
そのため、信長を恨み、謀反を起こしたのかもしれません。
後先を考えずに怒りや恨みの気持ちだけで、本能寺の変を起こしたとは、私には思えません。
光秀野望説
光秀野望説は、光秀自身が天下統一を狙っていたという説です。
光秀が天下統一をするうえで、最大の難敵は、主君の織田信長でした。
そこで、信長の警備が手薄な本能寺を狙って、謀反を起こしたのかもしれません。
しかしながら、この説に対しては、「智将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見もあります。
恐怖心説
信長の支配地域が大きく成ると、古くから仕えていた武将たちが、無能だと言われて、追放されました。
光秀自身も、成果を挙げなければ、いずれは追放されるのではないか、という恐怖心から謀反を起こしたという説です。
信長は、伝統的な地位や序列を無視して、敵対する勢力を残虐な手段で滅ぼし、日本統一を目指しました。
比叡山では延暦寺を焼き払い、僧侶・学僧・上人・民衆や女子供を、ことごとく虐殺しました。
更に、天正伊賀の乱では、村や寺院を焼き払い、住民のほか、僧侶700人余りの首をはね、伊賀国全体では非戦闘員を含めて3万人が殺害されています。
光秀は、信長さえ殺害すれば、畿内の武将たちが、自分に味方してくれると考えていたようです。
しかしながら、結果的には、直属の部下以外、光秀の味方には付いてくれませんでした。
将軍指令・幕府再興説
光秀には足利義昭(あしかがよしあき)と信長の連絡役として、信長の家臣となった経歴がありました。
恩もあり、関係も深い義昭からの誘いを、断りきれなかったという説です。
光秀が、義昭を再度主君としていただくのは、大義名分があるともいえます。
しかしながら、直接の指令があったのかどうかも含めて、義昭の積極的関与を示すような証拠は、依然として存在していません。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(もうりてるもと)の勢力下、鞆の浦(※現広島県福山市)に滞在していました。
義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に担がれた義昭を、まず京都に戻します。
そして、室町幕府を復活させる政権構想を、光秀が持っていたと考える研究者もいるようです。
朝廷関与説
「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命じられ、光秀が謀反を実行したのではないかとする説です。
この説の前提として、天正10年(1582年)頃に、信長は正親町天皇(おおぎまちてんのう)退位などの強引な朝廷工作を行い始めていました。
近年には「天正十年夏記(晴豊記)」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王(さねひとしんのう)と、近衛前久(このえ さきひさ)が「本能寺の変」の中心人物であったと、多くの学者が指摘しました。
この朝廷黒幕説の主な論拠となった「天正十年夏記」は、誠仁親王の義弟の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)の日記の一部です。
近衛家(公家の家格の頂点・五摂家の一家)17代当主ですから、光秀を誘う文章でも出てきたら朝廷説が確定することになりますね。
正親町天皇が、信長と相互依存関係を築くことにより、困窮していた財政事情を回復させたのは事実です。
だからといって、信長と朝廷の間柄が良好であったとはいえない状態です。
朝廷は信長に対して、「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」どの役職でもどうぞと、選択肢を与えていました。
これが、三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)です。
朝廷が信長の急進的な改革行動に危機感を持っていたことは、間違いないと思います。
関白=(かんぱく)天皇を補佐して、政務をつかさどる重職、太政大臣の上でこれ以上の官職はありません。
征夷大将軍=(せいいたいしょうぐん)本来は蝦夷を征討するという意味ですが、武家政権の最高位で幕府を開くことができます。
室町幕府の権威が地に落ちたことは、信長の件で分かっていますから、幕府以上の力としては朝廷ではないかと思っています。
四国攻め回避説
光秀と懇意(親しく交際して、仲のよい間柄)でありながら、信長と敵対していた四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために、起こしたとする説です。
近年、新しい文章が発見されて、四国攻め回避説に注目が当たりました。
その文章は、2014年に岡山県で見つかった「石谷(いしがい)家文書」です。
当時、信長は光秀に長宗我部氏の抱き込みを命じていました。
光秀は斎藤利三(さいとうとしみつ・光秀の家臣)の妹を元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけます。
本能寺の変の約5カ月前にあたる1月11日の書状で、斎藤利三が元親に「要求に従うのが長宗我部家のためになるし、光秀も努力している」と助言しています。
これに対し元親は、5月21日付で「阿波国(現徳島県)中心部の城からは退いたことを信長殿に伝えてほしい」と返答しています。
信長の命に従うことで元親が、衝突を避けようとしていたことが、証明されました。
しかし、天正8年(1580年)に入ると、織田信長は秀吉と手を結んだ三好康長(みよしやすなが)との関係を重視します。
そして、武力による四国平定に方針を変更したため、光秀の面目は丸つぶれになってしまいます。
大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって、光秀が本能寺を襲撃したことも、この説を後押ししています。
諸将黒幕説
織田信長を取り巻く有力武将が黒幕という説です。
おもに徳川家康や豊臣秀吉が上がります。
徳川家康加担説
徳川家康黒幕説の場合、信長の命令により、長男・信康(のぶやす)と正室・築山殿(つきやまどの)を自害させられたことが、恨みの原因の一つに挙げられます。
堺を検分(物見)していた家康の元に本能寺の変の知らせが入ります。
家康は伊賀(鈴鹿山中)を越えて命からがら岡崎に戻ります。
神君伊賀越え(しんくんいがごえ/家康が神様として祀られたことから神君といわれます)といわれています、が出来すぎだと思いませんか?
伊賀山中で、窮地に陥った家康のもとに200人の手勢を連れた服部半蔵(はっとりはんぞう)が急に現れて助けるのです。
私は、そんなにうまい話があるとは、とうてい思えません!
堺から、家康の居城岡崎城の間は、現在の新名神高速でも218キロもあります。
そんな道なき山中を歩いて、数日で帰れるものでしょうか?
羽柴秀吉加担説
羽柴秀吉黒幕説の場合は、光秀と同じく信長に長く使えた旧臣が追放され、将来に不安を持ったという説があります。
中国大返しの手際が良過ぎることも、彼への疑惑の根拠となっています(甲冑着こんで?10日で200キロ、絶対無理やん!)。
光秀の謀反を知ってないと、山崎の戦いに間に合ったとは、とうてい思えないですよね~!
こんなことが可能なのか?京都から200キロ以上離れた備中に一日で「本能寺の変」の連絡が届いたのかも不思議ですよね?
「本能寺の変」は、なぜ解明できないの?

誰が黒幕なのか?闇また闇の藪の中!
- 事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したか明らかに出来ない。
- 実行時期の見通しが良かったと思えない、機密漏洩防止策がなされていない。
- 黒幕からすれば、光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのかの説明が不明。
- 黒幕たちが居たとして、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援してない事が不思議、光秀の部下以外ほとんど味方がいない。
- 決定的なことは、裏付け史料がまったくない。
以上の点から、本能寺の変の真相は日本史最大の謎の一つといわれています。
どの説も捨てがたいですよね~!
推理小説では、一番得をした人間が犯人だとよく推理します。
それだと羽柴秀吉ということになりますね。
裏で糸を引っ張っていたからこそ早く実行犯の口を封じる必要があったと思いませんか?
秀吉が中国地方の戦場から中国大返しといわれる急進撃を行ったのもうなずけると思いませんか?
このように日本史最大の謎ともいわれる「本能寺の変」について考察してきました。
あなたはどの説を支持されますか?
私は決めましたよ~将軍指令・幕府再興説です。
最後に一言
やっぱり歴史はミステリアス (mysterious) !
ミステリアス は英語で神秘的、不可思議な様を表すのだそうですよ~。
そんなミステリアス な女性がいたらクラクラですよね、私が歴史にのめり込む理由がお解りに成りましたでしょうか?
さて、皆さんはどの説が一番心に響きましたか?
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。