
尼子氏、毛利元就の知略の前に破れ去る!と題して「月山富田城(がっさんとだじょう)」と尼子氏と毛利氏の攻防戦をご紹介します。
出雲月山富田城は、島根県安来市広瀬町富田に所在した山城です。
鎌倉時代、月山(標高183.9m)に佐々木氏によって作られ、戦国時代には山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となりました。
昭和9年(1934年)、城郭跡は国の史跡に指定されています。
ブログが始まったばかりなので、「歴史と文化」という視点に変わりは無いのですが、何が読者に求められているのか調査する意味合いで、いろいろと取り上げ方にばらつきがありますがお許しください。
今回は城址をと考えて、「月山富田城」をとりあげました。
尼子氏は私の大好きな武将山中鹿之助もいますので少し力を入れたいところなのですが、取材時に山城改修工事中の憂き目にあっており、美しい写真が無いことをご容赦願います。
五月に再取材の予定もありますので美しく整備された「月山富田城」をリライトさせていただきます。
また、私のブログのフィールドワークスタンスで関西から距離がある城郭ファンの方は気長にお待ちください(;^_^A。
取材は二度目だったので、本丸は以前の写真が使えそうです。
5月に日本三大船神事「ホーランエンヤ」の取材に出雲国の松江市行きますので、改めて取材してきます。
リライトもご期待ください。
目次
月山富田城ってどこの城
「月山富田城跡」は、島根県安来市広瀬町富田にある鎌倉~戦国時代の城跡です。
歴代の出雲国守護職の居城で、1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となりました。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となります。
天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城(但馬の竹田城は有名ですが近頃いろんなところでちらほら)」とも呼ばれていたそうです。
その後、城を巡っても度々攻防戦が行われましたが、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となっています。
サッカー好きなんですよ~~~!
サンフレッチェ広島ですよね~~w「三本まとまれば折れません」ってやつですよねネネ...
でも四本でもいいんじゃないですか?なんで三本なのかな?不思議ですよね~^^
薄っぺらい知識だったね~~(笑)
毛利元就には三人の息子たちが居たんだよ、長男 隆元・次男 元春(吉川氏に養子)・三男 隆景(小早川氏に養子)に、一本の矢は容易に折れてしまうが一族が結束すれば、三本(三人)まとめてでは簡単に折れることは無いと一族の結束を説いたんだね。
毛利元就 vs. 尼子氏最終決戦?
第二次月山富田城攻め
毛利氏と尼子氏による月山富田城での実質的な最後の戦い「第二次月山富田城攻め」についてお話ししましょう。
永禄8年(1565年)春、毛利軍は月山富田城を包囲し兵糧攻めが始ます。
この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(やまなか ゆきもり・鹿介・しかのすけ)が品川将員(狼介)を一騎打ちで討ち取ったとされています。
しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫してしまいました。
その頃には投降者も出始めていたが、毛利軍は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑しています。
こうすることで、孤立した城内に多くの兵が籠もることになり、補給のない中で城の兵糧を食い尽くさせる作戦ででした(ひどいく汚いといえなくもないですが、毛利元就らしい知略ですね)。
一方の尼子側は、宇山久兼が私財をなげうって購入した兵糧を密かに間道から月山富田城に運び入れつつ、奮闘を続けていましたが、尼子義久が讒言を信じて宇山久兼を殺してしまうという事件が起こり、士気が一気に下がってしまいました。
やがて、冬になり兵糧が底をつき始めたところで毛利軍は降伏を認める高札を立てたため、尼子方の籠城兵が集団で投降するようになります。
これに続くように、尼子氏の譜代の家臣までも投降を始めたと言われています。
永禄9年(1566年)11月21日尼子氏は降伏します。
毛利側は義久ら尼子一族の生命を保証し、28日に城を出た義久らは安芸国に引き取られ幽閉されました。
なお、和睦の交渉をしている間も逃亡兵が続出したため、開城時の城兵は僅か300余名だったとされています。

工事が終わったところまで登ってみましょう「花の壇」までは行けるようです
下の画像は前回取材時のものです(説明版・山中御殿跡七曲り階段・門址)。
この戦いは「第二次月山富田城攻め」として有名ですが、基本的に戦術面の勝利と言えますね。
毛利元就はこの尼子氏との戦いに勝つための戦略も駆使している処が、「KOEI」の「信長の野望」のシュミレーションゲームの中で毛利元就が知略値100を誇る所以だと思います。
新宮党の粛清は毛利元就の策略?
新宮党とは?
新宮党という名称で呼ばれるようになったのは、尼子国久の頃とされますが、それ以前より尼子氏一門による親衛隊的な役割を持つ精鋭集団が組織されていました。
この集団は尼子氏の勢力伸長に貢献し、出雲国内から安芸国・備後国等を転戦します。
天文10年(1540年)の吉田郡山城(毛利元就居城)の戦いにおいて、この組織の実質上の指導者であった尼子久幸が討死してしまいます。
新宮党は尼子経久の次男尼子国久が継承し、引き続き尼子一門の先兵として活躍します。
新宮党粛清さる!
天文23年11月1日(1554年11月25日)、当主尼子晴久は家中の統一を図るため、国久・誠久親子ら新宮党幹部を粛清しました。
国久は登城途中で暗殺され、誠久は新宮党館内にて自害します。
その一族も自害もしくは逃亡して、新宮党ははぼ壊滅してしまいました。
尼子晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせましたが、この粛清によって多くの精鋭が失われてしまいます。
「陰徳太平記」によれば、国久、誠久親子の粛清には、その強さを恐れた毛利元就の謀略が働いたと言われています。
現在は晴久の独断による粛清説が有力に成りつつあるようですが、「陰徳太平記」の記述が事実ならば、元就の戦略恐るべしですね~!
山中幸盛(鹿助)って誰?
山中幸盛は優れた武勇の持ち主で「山陰の麒麟児」の異名を取る戦国武将、山中鹿之助の呼び名の方が有名ですね。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名です。
ちなみに山中幸盛が尼子再興を託して担いだのは、この新宮党尼子誠久の遺児・尼子勝久だったのも因縁を感じますね~!
山中幸盛は、私的には戦国武将の中でもトップ10に入る大好きな武将です。
尼子家最高の為、豊臣秀吉に味方して勝久を還俗させ、播磨国で毛利勢と闘いますが、別所長治の謀反などもあり孤立、上月城の戦いで勝久は自害します。
山中鹿之助は毛利軍に降参しますが、小早川隆景に誅殺されたといわれています。
先生にしては、二度も取材に行ってなんか、いい加減というか?物足りないというかおかしくないですか?
お墓だってすぐ近くだし、上月城跡くらい登ってそうな気がするんですけどねぇ~~w
なんか匂うな~^^
じつはどうも前回PCが壊れた時に何百枚単位で写真が消えてしまったみたいなんです。
堀尾吉晴の墓も山名鹿之助の供養塔も飯梨川を挟んだ町中の洞光寺の尼子清定、経久父子の墓の写真も消えちゃった(涙)
ですから、次回は鹿之助像や経久像、それに品川大善墓所なども取材し直すつもりです。
堀尾吉晴入城と松江城へ移転
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降、堀尾氏が城主となりますが、慶長16年(1611年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となっています。
富田城址の登り口の隣には広瀬絣センターが有って素敵な藍染めの絣を見ることができます。
広瀬町内にもFacebookでもお友達に成って頂いている、天野紺屋(天野尚)さんの工房も有るので、楽しみにしてるんです。
天野紺屋 青蛙で検索ください。
成る程ね、そいうことね~^^
先生にしてはおしゃれさんだと思ってました~~w
最後に一言
今回の月山戸田城址のご紹介は残念な結果となってしまいました。
城の下には堀尾吉晴の墓や山中幸盛の慰霊塔もあります。
城下町の寺には尼子氏の墓地もあるので次回必ず、リライト時には御報告させていただきます。
取材から日にちも立っておりますので、現在は綺麗に整備されていると思います。
TOPでも書きましたように、5月に出雲方面への取材予定を組んでおります。
その時には必ず、もう一度月山富田城址を訪れたいと考えておりますので少々お待ち下いね。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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