
「船上山の戦い」は、元弘3年・正慶2年(1333年)、「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」を奉じた伯耆国の武将「名和長年(なわながとし)」と、幕府軍との間で起こった元弘の乱における一連の戦いの一つです。
船上山は、現在の鳥取県東伯郡琴浦町に位置しています。
隠岐から、名和長年を頼って脱出した後醍醐天皇は、隠岐守護「佐々木清高(ささききよたか)」の追手を逃れるために、天然の要害船上山に名和氏一族と供回り150名ほどで立てこもります。
元弘の乱の、後醍醐天皇の足跡をたどるために、この天然の要害に登山してきました。

まずは正面に見える断崖を上がった場所のある「船上山行宮(あんぐう)之碑」
20倍の軍勢差があったともいわれる幕府軍との壮絶な戦いの場所を、皆さんと一緒に体感してみましょう。
ちなみに、「船上山行宮(あんぐう)之碑」が建立されている、船上山山頂上北側の小丘「お休み場」では、西の島根半島から北の隠岐島までが一望できます。
後醍醐天皇がこの地でたびたび野立てされたと伝えられ、大正13年に行宮碑が建立されました。
目次
「名和長利」後醍醐帝を奉じて「船上山」で蜂起す
この登山記録を「登山」カテゴリーとしてUPするべきなのか?歴史部門なのか迷いましたが、登山目的よりも歴史遺産としての側面が大きいのでカテゴリーは「歴史の楽しみ方」としました。
さあ、私と一緒にフィールドワークを楽しみましょう。
この船上山で、元弘3年・正慶2年、後醍醐天皇を奉じた伯耆国の武将である名和長年と、鎌倉幕府軍との間で戦いが起こります。
元弘2年・正慶元年(1332年)、鎌倉幕府転覆計画を企てた後醍醐天皇が捕らえられ隠岐に流されると(元弘の変)、隠岐守護をしていた佐々木清高は黒木御所に天皇一行を幽閉します。
当時は西日本を中心に後醍醐天皇の皇子である護良親王を奉じた楠木正成を筆頭に「悪党」と呼ばれる武士達が反幕府活動を続けていました(赤坂・千早城の戦いなど)。
佐々木清高も有志による後醍醐天皇奪還を警戒し、御所を厳しく監視していました。
しかし、同年閏2月24日(暦1333年4月19日)に突如として後醍醐天皇は出雲を目指し隠岐を脱出します。
ところが西風により東に流され、隣国伯耆国の「名和の港」に漂着します。

断崖絶壁の船上山の上に登ってみましょう。
伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)にて海運業を営んでいたとされる名和長年は、後醍醐天皇を奉じて同年閏2月28日(西暦1333年4月23日)船上山で挙兵しました。
また、大山寺の別当であった名和長年の弟の信濃坊源盛も僧兵を引き連れて船上山へと向かいます。
後醍醐天皇は船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発します。
黒木御所(くろきのごしょ)とは黒木(皮を削っていない木材)を用いて建てられた天皇の御所のことです(多くは戦時や政変時の行宮を指します)。
自然状態あるいはそれに近い状態を「黒」と表現する場合があり(例:黒山)、「黒木」とは、「白木」や「赤木」のような製材過程を経た木材と違って皮を未だに付けたままのより自然状態に近い形態にある木材を指しています。
支配者である天皇の御所が黒木であるということは、粗末な御所という意味です。
『十訓抄』によれば、天智天皇が九州筑前国上座郡朝倉に「黒木の屋」を作った(「朝倉宮」)と伝えていますし、『太平記』では隠岐に流された後醍醐天皇のために佐々木貞清が用意したのが黒木御所であり、ここを皇居としたと伝えています。
私の実家但馬豊岡にも「承久の乱」で流された、雅成親王の御座所が黒木御所跡として残っています。
自分で言ってくださいよ~w
えっ!喋り忘れたって?先生~私はフィールドワークを楽しんでないんですからね、よろしくお願いしますよ~~!
それでは、時代背景を踏まえて、天然の要害「船上山」登山を楽しみましょう。
船上山は新緑、桜も綺麗ですし、紅葉も素晴らしいそうです。
歴史と登山を一緒に楽しんでみませんか?

東尾根の登山道を登ってみましょう

綺麗ですけど城どころでは無い堅固さです

倒木さえもが芸術的ですが、尾根で弓に狙われたらたまりませんね

「八雲立つ」湧き上がる雲が綺麗!戦乱時代ではなくてよかった(笑)
まさに天然の要害!左側屏風岩(アイキャッチ画像で確認ください)はゆうに50mはありそうです。
船上山に登った後は歴史遺構の見物にお連れしましょう。

東登山道を登り「船上山」としては私が立っている場所が頂上です
船上山としては頂上ですが、歴史遺構は私が立っている「船上山行宮之碑」の奥になります。
船上山の戦い
名和長年戦いの準備をする
後醍醐天皇に味方することを決断した名和長年は、居館を焼き払い、妻子はみな名和長年の邪魔にならないようにと自害して果てます。
正に、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、合戦を決意した名和長年は近くの要害の地・船上山に立て籠もることを決めます。
名和長年は兵糧の用意のために近隣の農家に「倉にある米を一荷持って船上山に運んだものには500文を与える」と触れ回し5~6千人もの人数に5千石の兵糧を運ばせています。
そのうえで、名和長重が後醍醐天皇を迎えに行きますが、急なことで輿(こし)も用意できず、鎧の上に荒薦(網目の荒いむしろ)を巻いて天皇を背負って船上山に向かったといわれています。
後醍醐天皇を因幡国・船上山に迎えた名和長年は、鎌倉幕府・討幕運動に加わりました。

名和長利図
佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みます。
これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣します。
鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称しています。
名和長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)でした。
鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介しています。
名和長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集めていました。
際立つ長年の智謀
船上山に籠もる150騎の名和軍は逆木を打って守りを固め、木に白布五百反の旗を括りつけ、近国の武士の紋を描いて隙間なく立て、自軍を大軍であるかのように見せかけます。
1333年2月29日、隠岐守護の佐々木清高らが率いる3000余の幕府軍が船上山を囲みましたが、旗を見て敵を大軍だと思い込み攻撃を躊躇してしまいます。
名和軍は小勢だということを見破られないように、時折矢を放っては幕府軍を牽制する作戦を採ります。
幕府軍の指揮官の一人、佐々木昌綱は麓で指揮を執っていましたが流れ矢が右の眼に当たり戦死してしまいます。
指揮官の戦死により、昌綱の部下500は怖気づいて戦意を失ってしまいます。
また別の指揮官、佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていましたが、なぜか突然降伏してしまいます。
そんな不利な状況を確認できなかった佐々木清高は、すでに味方は城に近づいていると考えて一の木戸を突破して攻め立てていたが、日暮れに激しい暴風雨がやってきたので木陰に身を避けます。
これを好機だと考えた名和長年は優れた射手を率いて攻撃に転じます。
次々に矢に倒れる幕府軍が大慌てとなったところで斬り出て攻め立てたので、1000騎余りが進退を失ってあの断崖から落ちて多くの死傷者を出したとされます。
佐々木清高は命からがら小波城(現米子市淀江・山陰道淀江トンネル北西側に存在)へと逃げ帰り、名和軍の勝利が確定します。
兵站線の勝利
船上山という天然の要害と大山寺に繋がる杣道を兵糧を担いで船上山へ運んだ伝承が残っています。
船上山に兵糧を運ぶ際、あまりの重さに耐えかねた名和軍は、一回で運ぶ量を一斗六升(約24キロ)にしたとされます。
この兵糧を下ろした土地(鳥取県西伯郡大山町豊成陣構)は一斗六升と呼ばれるようになりました。
船上山へ運びきれない米は幕府軍に利用される事を防ぐため館ごと米倉を焼き払ったとされ、名和氏の館跡とされる名和神社の裏手からは焼けた米が出土しています。
「船上山」後醍醐天皇の足跡

52の寺坊!現在は遺構のみ。平地、石積、五輪塔などです

私の山頂写真から20分ほど歩きますと、「船上神社」がありました 石積が歴史を感じますね

石にも歴史有!「後醍醐天皇行宮跡」があるようです

何々石塔が立っていたようですね、後醍醐天皇も触れられたかもしれません

船上神社奥の宮!建物として残るのはこれだけです

お寺があったようですが...色々な場所を訪れて思うのですが、戦禍による焼失が残念でなりませんね
さて、名和長利が「船上山」を選んだ理由ですが、もちろん「船上山」自体が天然の要害だったということもありますが、中国地方最高峰の大山と尾根続きになっており、敗れた時にはそちらに逃げて大山寺を味方にゲリラ戦をやるつもりだったようです。
軍勢の差を考えると当然かもしれませんね。
今ではその尾根はかなり崩れて通るのは危険になっています。
こんなに山深い所に後醍醐天皇が潜んで80日も暮らされたんですね、ビックリしました。
山登りといえば、次の天皇陛下になられる、皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう)もよく登山されてますよね。
先生も皇太子殿下と同じLEKI のストックポール使ってるって自慢してましたよね~~!
合戦後の情勢と影響
名和長利栄進する
名和長年強いですね、20倍ともいわれる幕府軍相手に奮戦し勝利をもたらしました。
その功により名和長年は3月3日には伯耆守に任ぜられ、13日には「君は船、臣は水、船があっても水がなければ大海を渡ることはできない、今より家紋を改めて水に船を遣わす。」と家紋を拝領しています。

「名和神社」に飾られた名和氏の家紋「帆掛け船」村上源氏季房流
そして当時、長年は「長高」と名乗っていましたが、後醍醐天皇が「長くて高いものは危ない」ということで長年と改名しています。
後醍醐帝上洛の綸旨を発す
この船上山での幕府方の敗北を受け、後詰で出雲国内にいた佐々木氏の一族の富士名義綱、塩冶高貞らが天皇方へ寝返るなど幕府軍は混乱を極めることとなります。
一方の後醍醐天皇は戦いの後に船上山に行宮を設置し、上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めます。
太平記によれば同年3月3日の午後より近隣の諸将が徐々に天皇方に馳せ参じ、西国中の兵士によって船上山の周囲2~30里は人馬の波で埋まったとされています

「宮跡」はこの地ですが、ただの平地が残るだけでした!残念
この頃より天皇方は余勢をかって攻勢へ転じ、同日に佐々木清高の拠点である小波城を長年の弟の名和行氏らが攻略します。
続いて、伯耆守護代である糟屋重行の居城である中山城を攻略し、佐々木清高と糟屋重行は京都へと撤退して行きます。
その後名和氏は、小鴨氏の居城である小鴨城を攻撃し小鴨元之らを降伏させるなど、伯耆国一帯の幕府勢力を駆逐します。
後醍醐天皇の復帰と挙兵を知った鎌倉幕府は船上山の討伐部隊の援軍にと山陽道からは名越高家、山陰道からは足利高氏を送ります。
しかし、名越高家は赤松則村に討ち取られ、足利高氏は丹波で反旗を翻して六波羅を攻め滅ぼしました。
京都へと逃れた佐々木清高と糟屋重行は同年5月9日に近江番場の蓮華寺にて六波羅探題の北条仲時らと共に自害しています。
これにより船上山討伐の幕府軍は完全に崩壊し、同年5月23日後醍醐天皇は帰洛することに成りました。
この船上山勝利の結果を受けて、後醍醐天皇の復権が達成され、足利高氏(尊氏)・新田義貞などの幕府勢力が離脱するきっかけとなり、鎌倉幕府滅亡の大きな転換点となって行きます。
じゃあこれでめでたしめでたしなんですね、後醍醐天皇が京都に戻って足利尊氏さんを征夷大将軍に任命して「室町幕府」が開かれる?
あれ...「建武の新政」とか「南北朝時代」とかありましたよね、あれは何なんですか?
アッ!先生、何んでニヤついてるんですか~w
そう簡単にはいかなかったんだよ、鎌倉時代から室町時代って難しいって君も言ってたじゃないか!
最初から味方していた楠木正成や今回取り上げた名和長利などは別にして、後醍醐天皇が有利になってから味方に付いた武士たちは何が目的だったのかな?
後醍醐天皇ほど優れた天皇が幕府を作って政治を任せて和歌でも読んでるタイプかどうか、フィールドワークで分かったんじゃないかな?
最後に一言

名和長年および義高(長男)、高光(三男)の首塚
しかしながら最後に御見せした五輪塔は長年親子の墓とされるものです。
「船上山」の戦いは時代の激流でした。
しかしながら更なる激流が「名和長年」と「後醍醐天皇」を待ち受けます。
そのお話は、またいずれ...

「六波羅探題」の陥落・幕府滅亡はすぐそこに
歴史の転換点はいつも激流のように一気に流れ落ちます。
船上山の戦いはそんな意味合いを持っています。
名和軍は150人幕府軍は3000名といわれています。
日本一の大逆転勝利といわれる織田信長VS今川義元の「桶狭間の戦い」でさえ織田軍3000~5000一方の今川軍は25000~45000と考えるといかに凄い戦いだったか分かります。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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