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国史画帖「大和桜」三十番 名和長年 船上山に義兵を挙ぐ

後醍醐天皇」悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出!と題して、伯耆の国(現在の鳥取県西部)で「元弘の乱(げんこうのらん)」の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の足跡をご紹介します。

元弘の乱」は、元弘元年(1331年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動です。

 

元弘3年・正慶2年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多く「元弘の変」とも呼ばれます。

このたぐいまれな才能を持った天皇は、歴史好きな私の「大好きな天皇トップ5」に「昭和天皇」「今上天皇陛下」と共に挙げられる天皇です。

 

昭和天皇は御老齢に成られて、口元をモゴモゴと動かされながら、手を右左では無く前後に振られる好好爺のイメージが強いので、意外に思われるかも知れません。

しかしながら、歴代の天皇の中で唯一日本国土を外国に占領さながら、現在の経済成長をもたらしたのは、陛下自身の死をも覚悟した、終戦の御英断の賜物と思っています(いろいろ、ご意見もあるかと思います)。

一度大国の座から転がり落ちて再びその地位に返り咲いた国は、世界の歴史上日本しか無いことを御存じでしょうか(凄いぞ日本!)?

今上天皇陛下は象徴天皇を体現され、皇后陛下とともに国民目線で災害被災地を巡り慰問された姿に感動と尊敬を禁じえません。

昭和天皇陛下や今上天皇陛下のことは又の機会にゆっくりお話したいと思います。

 

大好きな後醍醐天皇なので力が入りますが、まず肖像画をご覧ください。

後醍醐天皇座像

 

手にされているのは、仏法の法具(武器!)、金剛杵の一種で「 三鈷杵 」ですね。

天皇が武器をお持ちの肖像画って後醍醐天皇だけではないでしょうか?並々ならぬ、信念と決意が感じられます。

とりあえず「太平記」を読み直してから書きました(笑)

市郎右衛門
元号が二つに分かれていることについて、先に説明しておきます。
「正慶(しょうきょう、しょうけい)」は、持明院統(後の北朝)方にて使用された日本の元号です。
1332年から1333年5月25日までの期間を指します。
この時代の天皇は大覚寺統(後の南朝)の後醍醐天皇ですが、鎌倉幕府方は持明院統の光厳天皇を立てました。
元徳3年8月9日(ユリウス暦1331年9月1日)、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」へと改元しましたが、鎌倉幕府はこれを認めず「元徳」を使い続けるとともに、9月20日(10月22日)には光厳天皇を新たな天皇として即位させました。
翌年、後醍醐天皇は隠岐に流され、元徳4年・元弘2年4月28日(1332年5月23日)、光厳天皇は正慶に代始改元します。
しかし、正慶2年/元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡しました。
5月25日(7月7日)に光厳天皇は退位し、「正慶」の元号は廃されています。
その翌年の元弘4年1月29日(1334年3月5日)には、後醍醐天皇によって「建武」へと改元され、天皇はこのとき、光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言しています。

鎌倉時代後期の時代背景と要約

鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家(幕府執権)が権勢を振るっていました。

北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人たちは、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していきます。

幕府は徳政令(債権放棄)を発して対応しますが、社会的混乱から諸国では「悪党(あくとう)」の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていきます。

「悪党」は、ただの悪者ではありません、鎌倉幕府が指定した荘園領主ではなくて、商業などの交易収入によって実質的にに荘園を支配している領主を指すと考えています。

京都御所「紫宸殿(ししんでん)」あいにくの雨ですが、右に左近の桜(天皇から見ての右左)

 

一方、朝廷では13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統「後の北朝」)亀山天皇の子孫(大覚寺統「後の南朝」)の両血統の天皇が交互に即位し、両統迭立(りょうとうていりつ)が行われていました(この時点ではまだ南北朝時代とは呼びません)。

しかしながら、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にしていました。

倒幕の足音「正中の変」

文保2年(1318年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していました。

正中元年(1324年)の「正中の変」は六波羅探題(「ろくはらたんだい」は、鎌倉幕府の職名の一つ、承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関)によって未然に察知され、後醍醐天皇は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となりました。

「六波羅」にあった、補陀洛山六波羅蜜寺の平清盛塚

 

ちょっと難しいですが、「正中の変」は元亨4年9月「1324年9月」に起きた事件ですが、この年は12月9日に改元があって正中元年となったため、日本史の上ではこの改元後の元号をとって「元亨の変」ではなく「正中の変」と呼んでいます。

「正中の変」は失敗に終わったものの、この後も後醍醐天皇は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めていきます。

笠置山・赤坂城の戦い

元弘元年8月(1331年)、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚してしまいます。

六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵します。

後醍醐天皇の皇子、護良親王や、河内国の悪党、楠木正成(くすのきまさしげ)もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵します。

幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(あしかがたかうじ・後の尊氏)、新田義貞(にったよしさだ)らの討伐軍を差し向けます。

9月に笠置山は陥落してしまいます(笠置山の戦い)。

後醍醐天皇は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられました。

2000年ころまでは教科書に載っていた「足利尊氏図」今は掲載されていません

 

幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、元弘2年/正慶元年3月(1332年)、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐天皇を隠岐島へ配流します。

こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えます。

千早城の戦い

護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、再起の機会を伺っていいました。

元弘2年/正慶元年11月(1332年)、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨(りょうじ・基本は皇太子の命令)を発します。

正成は12月に赤坂城を奪回し、元弘3年/正慶2年1月(1333年)には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破します。

 

これに対し幕府は再び大仏家時・大仏高直兄弟、名越宗教らが率いる大軍(太平記では楠正軍1000人に対し幕府軍100万と誇張されています)を差し向けました。

金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かいます。

上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦しますが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させます。

同じ頃、吉野でも護良親王が破れてしまいます。

神戸湊川神社宝物館「楠木正成像」

 

これにより、楠木正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなりましたが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった奇策により、再び幕府軍を翻弄します。

幕府軍は上赤坂城と同じく水源を絶とうとしましたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果は有りませんでした。

楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜きます。

幕府軍が千早城に大軍を派遣しながら落とせずにいるとの情報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなりました。

市郎右衛門
長くなりましたが、時代背景の説明はしっかりしました。
ここでは、鎌倉幕府の弱体化と「悪党」の台頭を覚えてください。
後醍醐天皇は大好きな天皇の一人ですので、京都の墓所と楠木正成の立てこもった千早城跡は近いうちに是非行きたいと思います。
ちなみに、年号がたくさん出て来ましたが、記憶は大まかで結構、ストーリーを楽しんでください。
名前の漢字の読み仮名も、重要人物だけに限定しています。

さとね
楠木正成さんは、神戸の湊川で亡くなったので湊川神社に祀られていて、私も知ってますよ。
お祭りで武者行列とか開催されていて正成さんは愛されています。
「鼻毛多門」と名乗って京都に隠れていたとか言われてますね~ww
神戸の地名に多門の名前が付いているのは、正成さんの影響かな?
鎌倉幕府の滅亡から室町時代へ変わる辺りって難しくて覚えにくい時代ですよね...

「後醍醐天皇」悪党「名和長年」の力を頼って隠岐を脱出!

笠置山・赤坂城の戦いを経て、千早城での楠木正成の善戦の情報により、倒幕の気運が高まると全国各地で反幕府勢力が反乱の狼煙を上げ始めます。

中でも播磨国の赤松則村(円心)は周辺の後醍醐天皇勢力を糾合し京都へ進撃する勢いと成ります。

 

このような状況を見て、1333年閏2月に後醍醐天皇が幕府軍に閉じこめられていた隠岐の島から脱出、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)にて海運業を営んでいたとされる「名和長年」を頼り御来屋港(名和の湊)にたどり着きます。

後醍醐天皇御着船跡は鳥取県西伯郡大山町松河原です。御来屋港の少し東に、どちらが本当?

 

御来屋港にたどり着いた後醍醐天皇が体を休めるため、海岸にあった岩に腰掛けて休んだという言い伝えが残る岩が現在も残っています。

この岩は「お腰掛けの岩」と呼ばれています。

お得情報
漁港の中には、いつも「市郎右衛門」が伯耆や出雲のフィールドワークの帰りに立ち寄る、御来屋漁港直販店お魚センター「みくりや」 があります。
二階に『地魚料理 恵比須』があってすごく新鮮で美味しい魚や貝が食べられます!小さな漁港なので腰掛岩もすぐです。

現在は護岸工事が行き届いて港の道路わきです

 

おお~!ここに後醍醐天皇が座られたのです~!

 

歌も詠まれておられます。「忘れめや よるべもなみの荒磯を 御舟の上にとめし心を」

 

また、村人が「御腰掛の岩」に座る天皇をすぐ前にある家にお連れして、かくまったといわれています。

あばら家に戸板を立ててむしろを吊るし、外から見えなくしただけで、見た目は鶏のねぐらのようだったので、後醍醐天皇自らその家に塒(ねぐら)という名前をつけたと言われています。

天皇が名前をつけた塒さんの家は(現在はあばら家ではありませんよ、笑)、今もその場所に残っています(凄いことですね~♪)。

33代目の当主にあたるのは、塒佑志郎さん(取材当時・82歳)です。

ねぐらさんのお家です

 

塒佑志郎さん、表札を勝手に写してごめんなさいなのですが、碑が有るのですぐわかります

 

元弘帝御着船処の碑

 

家の前には「元弘帝(後醍醐天皇)御着船処の碑」が、設けられています。

さとね
また~~!先生だけめっちゃ美味しい物食べに、出かけてるじゃないですか。
私も岩ガキ食べたかったのに、次のフィールドワークは必ず連れて行ってくださいね~w
以前の「ifを楽しむ」では後醍醐天王が楠木正成さんの作戦を採用していなかったって怒ってませんでしたか?
今回はずいぶん後醍醐天皇を評価されているお思うんですが...
それにしても塒さんてお家は凄いですね^^ビックリしました。

市郎右衛門
さとね君(;^_^A、地方の料理を食べるのも大事な「食文化を知る」というフィールドワークの一つなんですョ。
取材から時間も経過しているので、塒佑志郎さんもお年を重ねておられるはずです。
近くには、名和一族を祀った名和神社もありますよ。
歴史というと京都や奈良が注目されがちだけれど、自分たちのすぐ傍にも多くの歴史遺産があることを忘れないでほしいね。

うんちく「乱」と「変」の違い

成功と失敗で考える「乱」と「変」

歴史を学んでいると出てくる「○○の変」とか「○○の乱」といった言葉はどう違うのかについて少し説明しておきます。

この「」とか「」って、どう使い分けているか知っていますか?

近頃、それぞれの違いについて書いているツイートが話題になっていました。

  • 「変」は成功したクーデター、成功して世の中が変わった、という勝者の視点。
  • 「乱」は失敗したクーデター、反乱が起きたものの鎮圧した、というこれも勝者の視点。

 

ツイートによると、「変」「乱」は勝者の視点から、「乱」はクーデターの成功と失敗にわけるというものです。

ほかにも「○○の役」もあり、こちらは「他国や辺境での戦争、他国からの侵略(元寇=弘安の役)でも使われる」だそうでした。

京都御所「禁門の変(蛤御門の変)」の長州軍の銃弾の後

 

私の認識も「変」は、政治的な変革を伴うもので、後に勝者が決める。

「乱」も天皇家や朝廷、幕府など、時の権力者に対して起こった反乱・内戦を表わし、元勢力が勝利した場合に使用すると考えていました。

政治的な変革があったということは、「変」はある意味クーデター成功ですし、「乱」は鎮圧されたからこそ「乱」ということです。

 

しかし、「変は成功」「乱は失敗」のくくりではすべてのパターンに当てはまらないともいえるので、少し詳しく調べてみました。

歴史学者による解釈と説明

「乱」と「変」はどう違うのか、すでに歴史学者による有力な説明があった!

「乱」と「変」の使用法はどう違うのか調べてみると、すでに歴史学者による有力な説明がありました。

学習院大学の安田元久先生による分類「歴史事象の呼称について 、承久の乱・承久の変を中心に」ですが、資料を読んでみると上の説明とは全く違うようです。

こちらは有名な「乙巳の変」あれ?「大化の改新」と覚えてませんか、事件は「変」です。

 

安田先生は、「乱」と「変」の種類をそれぞれ2つに分けています。

「乱」

① 政治権力に対する武力による反抗、すなわち叛逆事件
「 承平・天慶(じょへい・てんぎょう)の乱(=平将門や藤原純友らによる反乱)、保元・平治の乱、大塩平八郎の乱など」

② 政治権力の収奪による内乱状態
「壬申の乱、承久の乱、応仁・文明の乱など」

「変」

③ 政治権力者たる天皇・皇族、あるいは将軍などが獄逆・配流などに遭い、(一つの立場から見て)不当な立場に置かれた事件
「承久の変、正中の変、嘉吉の変など」

④ 政治上の対立による陰謀事件
「承和の変、応天門の変、鹿ケ谷の変など」

巻頭で使用した「元弘の乱」も「元弘の変」とも呼ばれていますし、「承久の乱」も「承久の変」とも両方の考え方があるようです。

分類の違いはどこにあるのかかみ砕いてみましょう。

 

②については、大規模な内乱ですから、安田先生も「乱と呼称することには何らの疑問もない」と述べています。

国全体として勢力が複数に分裂し、武力衝突が起きた事件は、まず「乱」といえます(②については解決ですね)。

 

次に、①③④はいずれも「その時点での政治権力者側から見ての叛乱や変事ですね。」であり、ふつうの内乱とは違って上下関係がはっきりしている点で②とは異なります。

①③④の3つをどう区別するか、安田先生は、一つには事件の規模の大小にもよるとしながら、次のように考えておられるようです。

①の場合には支配的政治体制の変革にも及びかねない叛乱事件を含むのに対し、④は何れも政治的支配層の内部におこった権力闘争であって、たとえ事件の発起主体が勝利を得ても、支配体制や支配権力の構造の上で大変革が期待されるといった性質をもっていなかった点に注意したい。

 

つまり、成功していたら体制のどんでん返しが起こるかもしれなかったのが「乱」(①)で、成功しても結局同じような体制が続いた可能性が高いのが「変」(④)といえます。

これを踏まえて、④にあてはまる645年の「乙巳の変」ですが、曽我氏に代わって天智天皇と中臣鎌足が政治力を強めたことを考えると、「壬申の乱」と同じように感じますが、内乱ではなく一気に片付いたことから「変」を使用しているのでしょう。

安田元久先生案をまとめます

 

  • 「国全体で分裂した勢力同士による内乱」は「乱」
  • 権力者への反抗のなかでも、「体制の変革がありえた大規模な反抗」が「乱」、「支配層の中で起きた権力争い」が「変」
  • 皇室や将軍が不当な境遇におかれた事件について「変」と名付けられたことがある

 

と三つにまとめることができます。

これを当てはめると、最初に紹介した例外についても矛盾なく分類できます。

  • 壬申の乱は、朝廷が2つの勢力(大海人皇子と大友皇子)に分裂して起きた内乱だったので「乱」
  • 治承寿永の乱は、支配層だった朝廷や平氏に対し、その外側から源氏が起こした反乱だったので「乱」
  • 禁門の変は、トップの地位を握りはじめていた公武合体派に対し、支配層の内側にいた長州藩が起こした反乱だったので「変」

 

現在の教科書がどの呼び方を採用しているかによって、「この反乱勢力は被支配層や民衆も含んでいた」などの推測ができ、当時の実情をつかむヒントになります。

また、歴史は見る立場によってぜんぜん印象が変わってきます。

今回は学習院大学・安田先生の説明を参考にしましたが、これに矛盾する呼び方をしている書籍がどんな立場に立っているのか、考えてみるのも勉強になると思います。

参考文献
・安田元久(1984)「歴史事象の呼称について : 『承久の乱』『承久の変』を中心に」学習院大学文学部『研究年報』

市郎右衛門
少し説明がくどくなって、難しかったかもしれませんね。
さとね君は「変」と「乱」の違いは、わかったかな?「陣」と「役」なんてのも日本史には出てくるので、難しいよね。
いつも言っているように、言葉の違いはそんなに重要に考えなくてもいいですよ、まずはストーリーを楽しみましょう。
ストーリーが面白くなってきたら付随して色々な言葉を覚えられるようになりますからね。

さとね
先生~~!難しすぎる...覚えられません。
物語として捉えていいんですね、鎌倉幕府の倒幕に二度失敗した後醍醐天皇だけど、周りが頑張ってくれたので、やる気を出して島根県の隠岐の島から脱出してとりあえず、「船上山」という山に隠れて三度目の正直を目指したということでいいですか?
確かに不屈の精神力はもっていらしたんですね。
それに、天皇が二人いるのにまだ南北朝時代じゃないんですね?ちょっと不思議です。

最後に一言

【最初に読んでほしい記事リンク】

 

市郎右衛門
今回歴史の転換点である鎌倉時代と室町時代の間をとりあげました。
少し難しかったかも知れませんが、前政権が弱体化することで、次の勢力が生まれてくるのは歴史の常なるものです。
下の写真は「後醍醐天皇」が立てこもって、幕府軍を迎え撃った「船上山」の登山口です。
奥に見える石の絶壁は50mもあります。
攻めることになった幕府軍の隠岐守護の佐々木清高らの苦労がわかるような気がしました。

天然の要害「船上山」

さて次回は、天然の要害「船上山」に立てこもった後醍醐天皇と鎌倉幕府の直接対決となります。
実際に船上山に登山して後醍醐天皇の足跡をたどってみました。
ご期待ください。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

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|o´艸)。oO(Thank you)。

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