
キリシタン大名「高山右近」400年の時を経て『福者』に認定!と題して「高山右近(たかやまうこん)」と高槻城址をご紹介します。
戦国武将としてはもちろん、殉教者として400年の時を経て「福者(ふくしゃ・Blessed)」に認定された高山右近の足跡をたどります。
2017年2月7日(火)、大阪城ホール(最大16,000人収容)で、ある人物をたたえるためのカトリック教会の世界的式典が有りました。
そのある人物とは、400年前の戦国大名「高山右近」です。
キリシタン大名「高山右近が」、キリスト教カトリックの「福者」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」が開催されたのです。
不遇の死をとげて400年、21世紀になりその生き方に光があたり始めました。

高山右近「列福式」
会場には1万人近くの人が詰めかけ、コンサート前の様な熱気に包まれていました。
しなしながら、彼等が待っているのはローマ法王の使者、教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官です。
この日、戦国時代を生きた、大坂のキリシタン大名『高山右近』が「福者(ふくしゃ)」として世界に認められる存在となりました。
キリシタン大名「高山右近」です。
またマイナーな所から行くな~とお考えかもしれません、もちろん織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も必ずご紹介いたしますが、バランスというものもありますし、家から近い所ですと写真不足を一日で解消できるという個人的な利点も考慮しています。
「高山右近」は、素晴らしい戦国武将ですので、お楽しみください。
目次
高山右近ってどんな人?

高槻カトリック教会に在る高山右近像

綺麗な教会ですね~古い寺社を取材することが多いので違和感があります!
高山右近(たかやま うこん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名です。
代表的なキリシタン大名として知られており、父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリアです。
12歳で洗礼を受け、父の跡を継ぎ「高槻城主」になると熱心に布教活動を行います。
右近の洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュスト(ユスト)、 そして号は南坊、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。
同じく摂津国人の武将・中川清秀は従兄弟とされています。
大阪の隠れキリシタンのお宝
キリシタン大名高山右近の統治で高槻市には、いまもキリスト教の痕跡が残っています。
高槻城の遺跡から日本で初めてキリシタンの墓が27基見つかりました。
木の棺には十字架の印が彫られ、墓から見つかった遺骨の手元には、「ロザリオ(数珠に十字架)」という祈るときに使う数珠のようなものが置かれていました。
棺の十字架とセットで発掘されたのは高槻だけだそうです。

現在は商工会議所、高山右近高槻天主教会跡地
全領民2万5千人のうち1万8千人が信者になったとも言われていますが、豊臣秀吉が「バテレン追放令」(1587年)を出すとその人生は一変します。
しかし、右近の領地で遺志を継ぎひそかにキリスト教を信仰した人たちがいました。
茨木市の山奥の集落、千提寺地区の人々です。
その中でも、ある家では先祖代々、ひそかにキリスト教の品々をずっと守ってきました。
その品は「あけずの櫃」と呼ばれる木の箱に収められ蔵の中に隠されていました。
末裔の東満理亜さんによると、次ぎのように伝わっていたと言われています。
世継ぎだけに伝承される、「あけずの櫃」といわれて、開けてはいけない事に成っていたそうです。
「あけずの櫃」の中には、歴史教科書でお馴染みの「フランシスコ・ザビエル」の肖像画も入っていました。
明治以前は、日曜日ごとに集まって、盛んに洗礼式や感謝祭をしていたといいます。

教科書で見たことない人はいないでしょうが、大阪茨木で発見?保存されていたフランシスコザビエル像
民衆の間に、ひそかに息づいてきた右近の姿、時を経て世界中の脚光を浴びることになりました。
ローマ法王庁が信仰に生きて死んだ「殉教者」として「福者」に認定したのです。
「福者」とはカトリックで最高の称号である「聖人」につぐ立場です。
400年の時を経て、高山右近の生き方が公に認められたのです。
地位や富を捨て信念に生きた高山右近の姿が、400年の時を経て今正に、再び蘇ろうとしています。
高山右近の「列福」の儀式とは?
大阪城ホールで開催された「高山右近」が、キリスト教カトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する「列福(れっぷく)式」は、フランシスコ教皇の代理としてヴァチカン市国の教皇庁から派遣されたアンジェロ・アマート枢機卿が進行役の主司式を務めました。
高山右近の「福者」認定は、2016年1月フランシスコ教皇(第266代ローマ教皇、在位:2013年3月13日~)から承認されていました。
列福式では、聖遺物として右近のチョッキの切れ端が壇上に置かれ、まず岡田武夫・東京大司教区大司教が福者の列に右近を加えるよう請願。
教皇代理のアンジェロ・アマート教皇庁列聖省長官がフランシスコ教皇の書簡を読み上げ、イタリア語で「福者の列に加えます」と告げ、その後、長崎の信者で画家の三牧(みまき)樺(か)ず子さんが今回の列福式のために描いた右近の肖像画が除幕されました。

長崎の信者で画家の三牧(みまき)樺(か)ず子さん「高山右近図」
カトリック教会は、今後、高山右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年祝うことになります。
- 総参加者数: 約10,000人
- 招待者: 約200人
- 枢機卿: アンジェロ・アマート枢機卿(教皇代理、列聖省長官) ルイス・アントニオ・タグレ枢機卿(マニラ大司教)
- 司 教 : 約30人
- 司 祭 : 約300人
- 聖歌隊 : 約1,000人
フランシスコザビエルの画像教科書に載ってましたね~~w
ロザリオって十字架のことではないんですか?
高槻?先日の地震で被害を受けて無ければいいですね...
大阪に隠れキリシタンってイメージがないですよね、長崎は世界遺産にも認定されたので有名ですけどネ!
ロザリオだけど、イメージ的には十字架のネックレスだと感じるかもしれないが、周りに着いた数珠が重要なんだ!
お祈りを一粒ずつ数えながら祈るために数珠が付いているんだよ。
ロザリオの祈りは、カトリック教会における伝統的な祈りで、「アヴェ・マリア」を繰り返し唱えながら福音書に記されているイエス・キリストの主な出来事を黙想していく祈りということらしい。
戦いに生き・信仰に死す!
戦国武将「高山右近」の生きざま!
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主でした。
出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれています。父の友照が当主のころには、当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城としていました。そうした中、右近は天文22年(1553年)に友照の嫡男として生まれます。
永禄6年(1563年)に10歳(数え12歳?)でキリスト教の洗礼を受けたようです。

「太平記英雄伝」より戦国時代には用いない大鎧に薙刀で床机に座る右近?
祈る右近とは全く逆の、凛々しい錦絵をご紹介です。
やはり戦国武将なんですよね~。
余りのイメージの違いに驚かれたかもしれませんf(^_^;
それは友照が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためでした。
永禄7年(1564年)、三好長慶が没すると三好氏は内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津国においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めていきました。
永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下、足利義昭が15代将軍となると状況は一変します。
義昭は摂津国の土着領主の一つである入江氏を滅ぼすと、直臣である和田惟政を高槻城に置き、惟政と伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津守護に任命しています(摂津三守護)。
高山父子はこの和田惟政に仕えることとなります。
元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重と中川清秀の軍に敗れて討死し(白井河原の戦い)、まもなくその村重が池田氏を乗っとるかたちに成ります。
村重は信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼし、摂津国は石山本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、村重の領有となりました。
和田惟政の死後高槻城はその子・惟長が城主となりましたが、17歳と若年だったため、叔父の和田惟増が彼を補佐することに成ります。
しかし惟長は何を思ったのか、この叔父を殺害してしまいます。
これにより高山家が和田惟長の主だった相談役とりましたが、これを良く思わない和田家臣たちは、惟長に高山親子の暗殺を進言します。
高山家には「惟長は好機があり次第、高山親子を殺すことに決めた」という知らせが届いていましたが、友照はこの事を荒木村重に相談、村重は「もしそうであるなら殺される前に殺すべき、自分は兵をもって援助する。」と言い、惟長の所領から2万石を与えるという書状を与えます。
元亀4年(1573年)3月、惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を話し合いと偽って呼び出しに成功します。
高山父子は仲間から呼び出しが罠だと聞かされていましたが、14~15名の家臣を連れて高槻城へ赴き、待ち構えていた惟長らと斬り合いになります。
夜の乱闘で部屋のロウソクが消えてしまった真っ暗な中、右近は火が消える直前に惟長が床の間の上にいるのを確認、火が消えるとすぐさま床の間に突っ込んで、腕に傷を受けつつも惟長に二太刀の致命傷を負わせました。

現高槻城址公園、市民憩いの場になっています。
しかし、騒ぎを聞いて駆けつけた高山の家臣達が加勢すると、そのうちの1人が誤って右近に斬りつけ、右近は首を半分ほども切断するという大怪我を負ってしまいます(半分は言いすぎかも知れません(-"-;A ...アセアセ)。
およそ助かりそうにない傷でしたが、右近は奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになってゆきます。
一方、惟長は輿に乗せられて家族や家臣たちと和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが、同地で死亡してしまいます。
この事件の後、高山父子は荒木村重の支配下に入る事になります。
村重は既に信長から摂津一円の支配権を得ていたため、この事件は問題にされることもなく、高山父子は晴れて高槻城主となることができました。
2人はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式を取り入れました。

高槻城跡(記念碑の裏手が本丸跡だそうで、公園が整備されています)
信長の進出と荒木村重謀反!
高山家は主君を何度も変えながら戦国の世を渡っていきます。
松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→豊臣秀吉→前田利家→前田利長、以上が右近が使えた主君ですね。

台座の左下にこんな文言が書かれていました
天正6年(1578年)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻します(三木の別所氏に呼応する形です)。
村重の謀反を知った右近はこれを翻意(ほんい)させようと考え、妹や息子を有岡城(伊丹市に城跡が残ります)に人質に出して誠意を示しながら謀反を阻止しようとしますが、重村の考えは変わりませんでした。
右近は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していたイエズス会員・オルガンティノ神父に助言を求めました。
神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたといわれています。
高槻城は要衝の地(西国街道の中間に位置)であったため、信長はここをまず落とそうとします。
右近が金や地位では動かないと判断した信長は、右近が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させると脅迫までします。
城内は徹底抗戦を訴える父・友照らと開城を求める派で真っ二つに別れました。

江戸期の「高槻城」再現パノラマ
懊悩した右近は信長に領地を返上することを決め、紙衣(かみごろも・僧侶などが着用)一枚で城を出て、信長の前に出頭しました(秀吉の前に出た政宗さながらですね)。
村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしませんでしたが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となりました(後に村重の重臣であった中川清秀も織田軍に寝返っています)。
この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増されます。

城址公園外に立つ石碑(台座は当時の石垣を使用)

西国街道(原国道171号線)との位置関係を見るといかに重要だったか理解できます 進む軍勢の側面を突ける恰好の位置です
信長「本能寺」に死す
天正10年(1582年)6月に「本能寺の変」で信長が没すると、明智光秀は高山右近と中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけました。
まもなく起こった「山崎の戦い」では先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議ではその功を認められて加増されています。
また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関、小神学校のこと)を高槻に移転しています。
「賤ヶ岳の戦い」では岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保ちました。
この件では助かったことで、勝家への内通を疑われ、天正11年5月16日(1583年7月5日)には一時、居城・高槻城を攻められています(多聞院日記)。
その後も「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦しています。
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
高槻城主変遷
室町時代は入江氏の居城でしたが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主と成ります。
天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれました。

枡形門とは、コの字型に入った敵を三方から攻撃できる防御門、上のジオラマでも確認できます

桜の根本の石がそうですが、右近は築城の技術にも優れていたようですね
豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられ、内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わりますが、長井氏は十三代を数え廃藩置県を迎えます。
キリシタン武将「高山右近」の生きざま!
右近キリシタン大名として生きる!
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は高山右近中川清秀の協力を期待していたようですが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけます。
右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなりました。
たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などです。
細川忠興・前田利家は洗礼を受けませんでしたが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的でした。

もう少し戦国武将としても評価されても良いのではないでしょうか?
それとは逆に、友照の政策を継いだ右近は、領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥要ります。
領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述があるようです。
反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状も受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となったと記載され、そのため廃寺が増えたので、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されています(少しニュアンスが違いますよね!)。
高山右近信仰に死す!

本丸天守跡を見るような位置です
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城としました。
しかし、まもなく「バテレン(宣教師)追放令(1587年)」が秀吉によって施行されます。
キリシタン大名には苦しい状況となりますが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせました。
その後しばらくは小西行長に庇護されて淡路島、小豆島や肥後国などに隠れ住みますが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らします。
天正18年(1590年)の「小田原征伐」にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍しています。
金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれます。
また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われます。
慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したともいわれます。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による「キリシタン国外追放令・キリシタン禁教令(1614年)」を受けて、人々の引きとめる中お世話になっていた前田家(加賀)を退去しています。
ついにフィリピン・マニラへの追放が決まり、長崎から家族と共にマニラに送られる船に乗り、12月にマニラに到着します。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、マニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けました。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに熱病にかかります。
翌年1月6日(1615年2月3日)に息を引き取ります。
享年63歳、マニラ到着からわずか40日目のことでした。
その後、日本は厳しいキリスト教弾圧の時代に入ります。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間で盛大に行われました。
右近の亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には、右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられます。
1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され、土地と建物はマニラ大司教区の所有となります。
その後、右近の遺骨と画像は行方不明となりますが、右近の遺骨を探す活動は今も続けられています。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある様です。
先生の扱うブログテーマって~、私を泣かせよう・泣かせようと、しているような気がしてならないんですけど...
大河ドラマ「軍師官兵衛」で高山右近役は生田斗真さんでしたよね。
イメージってすごいですよ~!斗真様がそんなに悲しい死に方をされたかと思うと涙が止まらないじゃないですか!!!
偶然だ!偶然!たまたま重なっただけだし、歴史上の人物は全て亡くなっているわけだから...
そういえば「軍師官兵衛」の高山右近は生田斗真さんだったね、「軍師官兵衛」は最後まで面白い大河ドラマだったね、官兵衛が最期の最期まで天下取りを諦めないシナリオが良かったな、(*-ω-)ウンウン♪
先生がヘッダーに使っている但馬の天空の城「竹田城跡」が最初に秀吉の小田原攻めの一夜城として使われてたのが分かったかな?
うんちく・カトリックの「福者」と「聖人」
私は、神社とお寺が好きなうえに、クリスマスにはケーキを食べて、近頃USJのハロウィンに興味深々な純粋な?日本人なので、福者と聖人の違いが判りませんが、人物例を出すことでご理解いただきたいです。
カトリック教会のHP(尊者・福者・聖人欄)を参考にしますと殉教者であること、時がたち、法皇に認められると福者となります。
更に時がたち、更に法皇に認められた方が聖人になるようです(奇跡が起こることも重要な要因かも知れません?)。
日本人の聖人は20名だけだ!
現在日本人の聖人は20名です(たぶん(;^_^A)。
1597年2月5日、長崎・西坂において十字架刑に処せられ、最初の殉教者となった26人の司祭、修道士、信徒は、1627年に教皇ウルバノ8世により福者に、1862年、教皇ピオ9世によって聖人に列せられました。
この「日本26聖人」のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。

高校の修学旅行で行きました(画像出典:Wikipedia)
日本と関係が深いと言えば上で画像も出しましたが、フランシスコザビエルも聖人に列せられています。
時代が近い所ではマザーテレサ(聖人)列聖に先立ってマザー・テレサが福者として列福されたのは2003年10月19日、重い腹部腫瘍を患い治癒の望みのない34歳のインド人女性がマザー・テレサの設立した「死を待つ人々の家」を訪問、シスターたちと一緒に祈った翌日に腫瘍が無くなったことが奇跡と認められ、時の教皇ヨハネ・パウロ2世が福者として認定しました。
列福から13年、脳腫瘍で危篤に陥ったブラジル人男性がマザー・テレサの執り成しで回復したことが2つ目の奇跡と認められ、現教皇フランシスコ猊下が聖人として認定する運びになったそうです。
「福者」とはなんだ?
福者は、カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号です。
この称号を受けることを「列福(福者の列に加える)」といいます。
その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもあります。
日本の福者は、これまでペトロ岐部と187殉教者でした。
彼らは、2008年11月24日、長崎市で「福者」に列せられました。
17世紀前半に全国各地でいのちを絶たれた188人の殉教者です。

武者絵とはまた違う「キリストに祈る高山右近」
そして、今回取り上げたユスト高山右近ですね。
日本人の「福者」の数は189人です(間違いない!・笑)。

高槻カトリック教会の式場、十字架の光を中に取り入れられるようになっています

十字架の下には、やはり高山右近のレリーフです
今回は「高槻カトリック教会」だったね、プロテスタント系の「日本キリスト教会高槻教会」も有るんだよ。
カトリックと分派したプロテスタントがどう違うんだなんてことは先生にも簡単には説明できないから、簡単な見分け方だけ教えておこう。
まず教会!カトリック教会は伝統があるから煌びやかでゴージャスな雰囲気、一方プロテスタントの教会はシンプルで質素だね。
カトリックがローマ法王を頂点にして組織構造を見事にピラミッド形式にしているのに対してプロテスタントは聖書が一番なんだ!そうそうカトリックは神父(司祭)プロテスタントは牧師(先生)と呼ぶんだよ~。
詳しくは自分で調べてね、さとね君への宿題だよ!
プロテスタントの人たちは、結婚式はどうするのかしら?
先生~~!宿題のテーマが大きすぎると思うんですけど~、一年かかるわ!
今回「高槻城跡」の写真がほとんどっていうか全くといってありませんでしたね。
大抵のお城なら、石垣位は残っているのにね、チョッピリ残念でしたね!
最後に一言
全国の城が破却されずに残っていたら、どんなに凄いかといつも思います。
明治政府が明治6年(1873年)に出した、廃城令と徳川家康が元和元年(1615年)に命じた一国一城令によって多くの城郭が廃城になったのは残念でなりません。
歴史は私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれます。
今回もまた新しい知識を自身に与えてくれました。
学生時代を通して「こんなにも勉強したことが有っただろうか?」と思ってしまう、今日この頃です(笑)
どうでしたか?やっぱり戦国時代は面白いね~と思っていただけたら、私「市郎右衛門」の作戦は成功です。
今後も、色々な時代を書いていくこと、神社・お寺・城跡とこれもあえて偏らないように投稿しています。
読んでくださる皆さんの琴線に触れるのはどこだ?私も試行錯誤の途中です。
次回もできれば新しい試みで皆さんを、楽しませて行きたいと企画中です。
今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。
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|o´艸)。oO(Thank you)。
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