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「青葉の笛」を吹く平 敦盛

前回の続編、源平合戦「一ノ谷の戦い」と「青葉の笛(あおばのふえ)」で有名な「平敦盛(たいらのあつもり)」の悲話ゆかりの地を訪ねます。

一ノ谷の戦いは、平安時代の末期に摂津国福原および須磨で行われた戦いです。

治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いで、の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に起こりました。

平敦盛を呼び止める熊谷直美像「須磨寺にはシーンが再現されています」

 

今回は『平家物語』巻頭文を中抜きして、日本の事柄をつづった後半をご紹介します。

近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、

平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、

間近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。

わかりやすい現代文に要約してみましょう。

【現代文要約】

近ごろの我が国を調べてみると、承平の平将門(たいらの まさかど)、天慶の藤原純友(ふじわらの すみとも)、康和の源義親(みなもとの よしちか)、

平治の藤原信頼(ふじわらの のぶより)、これらの者はおごり高ぶる心も勢いが盛んなことも、みなそれぞれに甚だしいものであったが、

ごく最近で言えば、六波羅の入道で前の太政大臣平朝臣清盛公と申した人の有様は、伝え伺うにつけても、想像することも言い表すこともできないほどである。

市郎右衛門
つまり、「平家物語」の巻頭文の内容を要約すると、「祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」の響きがあります。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を示しています。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようなものです。最近では、平清盛公のように勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまうので、まったく風の前の塵と同じことなのですよ~~~!」と謡っているのです。

『平家物語』巻第九「敦盛最後」

『平家物語』の中でも最も有名な逸話の一つであり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛最期の場面です。

平敦盛って誰?

平敦盛(たいらの あつもり)は、平清盛(たいらの きよもり)の弟、平経盛(たいらの つねもり)の末子です(清盛の甥に成ります。)。

織田信長が幸若舞の演目「敦盛」を好んで舞ったと伝わることから、戦国史ファンにとっては馴染の有る名前ですね。

平敦盛は若年ながら笛の名手と歌われています。

平氏軍が敗走する際、青葉の笛漢(漢竹の横笛・小枝)を忘れ取りに戻る。

そんな「平家物語」のシーンが有名ですね。

「平敦盛」

「平敦盛(1169~1184)」父は平経盛(清盛異母弟)。

従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれました。

笛の名手とされ、愛用の「青葉の笛」は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものです。

この一ノ谷の合戦が初陣、兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死しています。

平敦盛像「須磨寺」

 

「熊谷直実」

「熊谷直実(1141~1207)」武蔵国熊谷の御家人、源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦します。

一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていきました。

建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年「浄土宗開祖・法然」の弟子となって出家し、名を蓮生とし、後は浄土宗の普及に努めます。

熊谷直美「須磨寺」

 

「平家物語」より敦盛最後

平安時代末期、政治の実権を握り、栄華を極めていた平氏一門でしたが、それに反発する源氏の勢力も急速に拡大して行きます。

太政大臣、平清盛の死後、源氏の軍の圧倒的な兵力により、平氏は一度は都を追われてしまいます。

何とか軍勢を立て直し、神戸「一ノ谷(現在の須磨公園の辺りです)」に陣をかまえます。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決します。

標高253mの旗振山頂上です。ここから源義経の猛攻「逆落とし」が始まったともいわれます

 

正に逆落とし平地部分が「一ノ谷陣地」に成ります

 

不意を突かれた平家軍は堪えきれず、逃げまどい総退却、屋島(香川県高松市の東北部)に向かって海上を船で敗走し始めます。

 

先陣を切ったものの、戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の熊谷直実は、「平氏の軍が、助け船に乗ろうと、波打ちぎわの方へ逃げているにちがいない、 身分の高い大将と立ち合いたいものだ」と考えていました。

そこに、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけます。

身なりからいって平家の公達であることは間違いないと考えた熊谷直実が「大将軍とお見受けいたす、卑怯にも敵に背中を見せらるか?戻って立ち合われよ!」と扇を挙げて声を掛けると、敵将はその呼びかけに振り向き、「おう」と凛々しくも応じて陸に向かって引き返して一騎打ちとなります。

 

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せます。

そして首を取ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る薄化粧にお歯黒(当時の貴族は男性も既婚者はそのような化粧だったようです。)の若く美い若者でした。

直実には、ちょうど自分の息子「小次郎」と同じぐらいに見えました。

 

直実が名を尋ねると、若者は「名乗る必要は無い。首実検すればわかること」とにべもない返事、殺すに忍びないと、逃がそうかとも考えます。

「なんと立派な大将だ!この者一人を討ち取っても、討ち取らなくても、 勝つ時は勝つ、負ける時は負けるのが戦というものであろう。この者の父は、この者が討たれたと聞けば、どんなにか嘆き悲しむ事だろう。なんと哀れなことだ。なんとかして助けてやろう!」と一時は心に決めます。

 

しかしこの時、味方の騎馬50騎程が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになります。

「あなたを何とか助けたいとは思うが、味方も数多く迫ってくるので、 もう逃がす事ができない。あわれとは思うまい、他の誰かの手にかけるよりは、せめて私が首をとって、後に立派に供養いたします」と声をかけるものの、それを聞いても若武者は、「さあ、さっさと首を取れ!」と相変わらず堂々とした、毅然とした態度は変わりません。

直実は、後世の供養を誓うと、涙ながらに若者の首を取ったのでした。

800年前も白砂の美しい海岸だったのか「須磨海岸」

 

直実が後に知る事ですが、若武者は名を「平敦盛」といい、歳はまだ16歳。

そして遺体についていた腰の袋の中に、笛を見つけます。

甲冑を着ながらも所持していたその笛は、こんな戦場でも雅を忘れない、貴族の心を持っていた人物だという事の証拠でした。

 

敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であったのかと気づき、戦の世の無常を悟るのです。

平家物語の中でも最も悲しく泣ける話と有名な、敦盛最後のシーンです。

平敦盛胴塚

神戸市須磨区の一ノ谷の古戦場跡のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔があります。

アクセスは山陽電鉄「須磨浦公園」駅からすぐ、車なら須磨公園駐車場の直ぐ隣です。

下の写真が、平敦盛の胴塚とされる敦盛塚です。

「須磨公園駐車場」横にある「敦盛塚」全国2位の大きさです

 

高さ3.5mという大きな塔で、室町時代に供養塔として建てられたとされます。

 

一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられています。

また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています。

800年を経てもイケメン公達の墓に花を手向ける人は後を絶ちません

 

凄い大き、全国2位、1位は石清水八幡宮に在るそうです(説明版がではないですよ・笑)

 

うんちく「アツモリソウ」と「クマガイソウ」

アツモリソウ(敦盛草)の名前は、寿永3(1184)年2月、源氏の名将源義経は、平氏を真下に見下ろす、人間が降りることが困難な断崖絶壁である鵯越を馬で降りて、平氏の陣に火を放ちます。

この奇襲攻撃で平氏は大敗し沖の船に乗り込み逃げ落ちる事に成りました。

この戦いで討たれた平家の若き将、平敦盛の名に由来する花です。

「アツモリソウ」綺麗ですね~丸いところが母衣に似ています(出典:Wikipedia)

 

和名の由来は勿論!当時合戦で流れ矢を背後から受けた場合の防具として、大きく膨らませた袋(母衣、近頃のドラマや映画ではよく見かけるように成りましたね)を鎧の上に背負っていたようで、その形がこの花の形に似ていることから付いた名称といわれています。

歌川国貞作  作品名:「無官太夫敦盛」「熊谷次郎直実」

 

袋状の唇弁(しんべん)を持つ花の姿を、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に見立ててつけられています。

また、この命名は熊谷直実の名をなぞらえた同属のクマガイソウと対をなしています。

正に浮世絵通り「クマガイソウ」です(出典:Wikipedia)

 

日本人の美意識に敬服します。

戦国武将の家紋も殆どが花や草ですが、そんな国が日本以外に有るでしょうか?

本当に日本人で良かったと思える命名の発想だと思います。

さとね
うえ~~ん!
美男薄命とは良く言ったものですね~;つД`)
山口県「壇ノ浦」での悲しいお話は知ってましたけど、神戸でも同じように悲しいお話があったんですね...
義経さん好きだったけど、なんか嫌いになって来ました。
奇襲が成功したといえばかっこいいけど、正々堂々と一度も闘ってないような気がします。

市郎右衛門
こらこら、さとね君そんなことで嫌いになられたら、それこそ「美男」の義経が嘆きますよ(笑)
確かに義経は戦闘の改革者だったのかもしれないね、これまでの「や~や~我こそは市郎右衛門なり」とお互いに名乗り出て一騎打ちをする古い戦法を無視したとも言えなくないね。
時代の変換期には必ず新しい試みがあるものだと思いますよ。
織田信長が鉄砲を主力に使ったといわれる「長篠の戦い」なども、それと同じことではないのかな?

「須磨寺」平敦盛首塚

信長の「敦盛」は勘違い?

幸若舞の「敦盛」と言えば「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり~。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか~~。」と織田信長が舞うシーンが、信長を扱った時代劇では必ず有るので有名ですが、原作とは少し意味合いが違い信長の創作らしいです(嘘でしょ~って感じですね(^^;)。

幸若舞の演目の「敦盛」

幸若舞の演目のひとつ「敦盛」は御紹介した「平家物語」のお話と少し?相違点があるようなので、ご紹介します(作者と製作年は不詳ですね)。

1184年(元暦元年)(平家方の呼ぶ寿永2年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の一戦である須磨の浦における「一ノ谷の戦い」で、平家軍は源氏軍に押されて敗走をはじめます。

 

平清盛の甥で平経盛の子、若き笛の名手でもあった平敦盛は、退却の際に愛用の漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を持ち出し忘れ、これを取りに戻ったため退却船に乗り遅れてしまいます。

出船しはじめた退却船を目指し渚に馬を飛ばす敦盛、退却船も気付いて岸へ船を戻そうとしますが、逆風で思うように船体を寄せられません。

敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり馬を上手く捌けずにいました。

 

そこに源氏方の熊谷直実が通りがかり、格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、平家の有力武将であろうと踏んで一騎討ちを挑みます。

敦盛はこれに対して受けあいませんでしたが、直実は将同士の一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫します。

多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、敦盛は直実との一騎討ちに応ました。

 

しかし実戦経験の差は歴然、百戦錬磨の直実に一騎討ちでかなうはずなく、敦盛は捕らえられてしまいます。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、元服間もない紅顔の若武者、名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知ります。

直実の同じく16歳の息子熊谷直家は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらっていました。

これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、同道の源氏諸将が訝しみはじめ、「次郎(直実)に二心あり!次郎もろとも討ち取らむ」との声が上がり始めたため、直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取ります。

 

一ノ谷合戦は源氏方の勝利に終わりましたが、若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめ事に成ります。

合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、翌年には屋島の戦いの触れが出され、また同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、出家を決意して世をはかなむようになります。

 

幸若舞のお話では、幾つか相違点が出てきました。

  1. 笛を取りに戻ったから遅れたのではない
  2. 一騎討ちに応じなければ兵に命じて矢を放つと威迫していない
  3. 名を尋ねても敦盛は答えていない
  4. 16歳の息子熊谷直家は死んでいない怪我しただけ
  5. 次郎(直実)に二心あり!の部分が全くない

 

こちらの方がドラスティックに話されているように感じませんか?

直実の無情感のを出す為の脚色が感じられます。

幸若舞の謡・続編「直実世をはかなむ」

直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節に、「思へばこの世は常の住み家にあらず草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」という詞章があり、織田信長がこの節を特に好んで演じたのは皆さんもご存知ですね。

「出陣の舞」安田靫彦(昭和45年)山種美術館所蔵

 

仏教思想の世界観をあらわしているのですが、信長の勘違いもしくは後世の私たちの勘違いと思われる部分を考察します。

「人間(じんかん又は、にんげんと詠みます)五十年」は、人の世の意味です。

「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8000歳とされます(800×360×8000=23040000年ですか?長すぎます)。

「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされます(50×360×500=9000000年、死にたくなるかも?)。

 

信長は、「人間」を「人の世」の意味で使っていた様ですし「化天」を「下天」と読み替え(もしくは読み違い?)ています。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない、ほんの夢や幻のようなものだ」という意味になりますが、現代においては、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合があります。

 

この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではないのです。

にもかかわらず、信長が49歳で本能寺に倒れた事もあり、人の人生は50年と信長が謡っていたと思っておられる方が多いいのでは無いでしょうか(若しくは信長が本当に間違えていたのかも知れませんが!)?

須磨寺の『敦盛首塚』と源平合戦関連史跡

須磨寺は山陽電鉄「須磨寺」駅から徒歩5分ほどです。

 

須磨寺山門

 

須磨寺奉納額より、敦盛青葉の笛を奏でる

 

須磨寺奉納額より、「敦盛青葉の笛を奏でる」をご紹介しましたが、須磨寺の庭には二人の合戦のシーンが再現されています(前半で紹介しました)。

大師堂傍らの池は「敦盛首洗い池」、その背後には、合戦終了後、義経が池の前に腰を掛けて平家武将らの首実検をした名残という「義経腰掛の松」があります(この5年後、義経自らが鎌倉で首実検されるとは、思いもよらなかったでしょうが)。

義経首実検「首洗いの池」

 

義経首実検「腰掛の松」

 

敦盛の首は「須磨寺」で実検を終えると葬られ、その境内に「首塚」が建てられ祀られました。

また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛「青葉の笛」が収蔵されています。

堂に成っていて、五輪塔が「首塚」丁寧に祀られています

 

謡曲「敦盛」の説明版

 

首塚、敦盛さん眠っておられるのですかね?

 

太い右側が「青葉の笛」左側の細い物が「漢竹の笛」です

 

須磨寺については、とても素敵なお寺なので、又の機会に丁寧に御紹介させて頂きます。

書をご紹介します

須磨寺で素敵な書を見ることができました。

2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で題字を担当し、多岐に渡り様々な活動を展開、人々に感動と勇気と希望を与えているダウン症の女流書家「金澤翔子」さんの書を紹介します(偶然出会えたし、実は大河ドラマの題字の事を知りませんでした。

「慈眼視衆生」意味は下に…ガラスが光って申し訳ありません

 

素晴しいものに出会うことが出来ました! 「敦盛」の導きでかも?

 

大河ドラマ「平清盛」題字

 

「金澤翔子」さん足跡。

1985 年東京都目黒区に誕生。

5歳から書道を始め、母でもある金沢蘭凰に師事。

10歳で「般若心経」を書き、2004 年に雅号 小蘭を取得。

2005年より様々な会場にて席上揮毫を行い、 奇跡の天才書家として注目をあつめる。

2009 年京都・建仁寺に「風神雷神」を奉納。

「風神雷神」 金澤翔子書 京都建仁寺蔵

 

さとね
先生、ちょっぴり言わせてもらってもいいですか?
花の名前の由来から、信長さんの勘違い、大河ドラマの題字まで、うんちく詰め込み過ぎてませんか?
確かに「アツモリソウ」とっても可愛いですけど...
これからも、こんな感じで盛りだくさんのブログになるんですか~~w

市郎右衛門
笑笑!
これは一本取られましたね~。
確かに、私はうんちく好きなので、話があちらこちらに飛ぶことはよくありますよね。
それでも、色々な視点から日本の歴史や文化を理解してもらえたら、とてもありがたいと思っています。
それが花の名前だったり、謡曲だったりするかもしれないけれど、入り口は大きく開けて待っていたいと思っています。
さとね君や皆さんも、これだけ文化豊かな日本という国にせっかく生まれたのだからね!

最後に一言

最後にこんな伝説をご紹介します。

直実は建久元年(1190年)法然の勧めにより、高野山で敦盛の七回忌法要を行っています。

また『一谷嫩軍記』では、実は敦盛は後白河院のご落胤で、直実はそれを知っていて、自分の息子小次郎の首を刎ねたという記述となっているのもドッキリで面白いですね?

市郎右衛門
さあ!二度にわたって平安末期の一ノ谷の戦いを「平家物語」の視点から取り上げました。
平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語です。
そこには、脚色や事実と違う事柄も有るかもしれません。
800年も前の事柄で、「首洗いの池」や「義経腰掛の松」が本物かと問われれば、「本物です」と確信をもって言うことは出来ません。
しかしながら、私たちの心の中には「花の名前」や「謡曲・幸若舞」として、また数々の「物語」として語り継がれているのです。

歴史は私に新しい発見と素晴しい出会いをもたらしてくれます。

学生時代を通してこんなにも勉強したことが有ったかと思ってしまう、今日この頃です。

長々とお付き合いをありがとうございました。

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