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今回は源平合戦「一ノ谷の戦い」と「青葉の笛(あおばのふえ)」で有名な「平敦盛(たいらのあつもり)」の悲話ゆかりの地を訪ねます。

一ノ谷の戦いは、平安時代の末期に摂津国福原および須磨で行われた戦いです。

治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いで、の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に起こりました。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

自慢というわけではありませんが、中学で覚えて40年間忘れた事は有りませんでした。

バカなことをと思われるでしょうが、やはり琵琶の音とか欲しいな(笑)

一ノ谷の平氏本陣にほど近い場所にあったと思われる「須磨寺」では平敦盛と熊谷直美の合戦シーンが再現されていました

 

今回は『平家物語』の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、平敦盛の胴塚首塚を御紹介します。

涙脆い人は注意してください!

市郎右衛門
今回は『平家物語』の中でも、最も涙の量が多くなる「巻第九~敦盛最後」ゆかりの地から、平敦盛の胴塚と首塚を御紹介しますといいながら、1万字を軽く超える情報量になってしまいました。
まだまだ書きたりないので、「平家物語」に因んで一の巻・二の巻と二つに分けさせてもらいました。
その分長々と読まなくてよいので、わかりやすくなっている思います。
『平家物語』は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語です。
保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追いながら、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出した名作です。
この度取り上げる「一ノ谷の戦い」を描いた巻第九も、しびれずにはいられませんのでお楽しみください。

源平の合戦前夜

吾妻鏡』『平家物語』を参考にできるだけわかりやすく源平合戦をご紹介します。

時代背景と決戦前夜

源義仲VS源頼朝

寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)源義仲(みなもとのよしなか・木曽義仲の名前や巴御前でも有名)に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れました。

京を制圧した義仲でしたが、統治に失敗して後白河法皇(ごしらかわ ほうおう)とも対立するようになっっていきます。

義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵しますが備中国で大敗を喫してしまいます(水島の戦い)。

 

後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝(みなもとの よりとも)を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまいます(法住寺合戦)。

東国からは頼朝、西からは平氏の巻き返しに会い、情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶します。

寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んでしまいます(宇治川の戦い)。

平氏再起する

この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していました。

平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していました。

平氏邸宅跡地・神戸市平野に立つ「平清盛像」

 

さらに、平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていました。

1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出します。

さとね
先生~~!
質問・質問~~?
まず、天皇・上皇・法皇の違いを教えてください。
次に、平清盛さんが太政大臣まで出世した理由って有るんですか?

市郎右衛門
お~!さとね君、予習勉強してきたね(笑)
なる程、天皇は今の天皇だね、現在は明仁今上天皇陛下だね、今年は五月になると皇太子が即位されるから新元号が四月に発表されて、皇太子徳仁親王が新しい天皇陛下になられますね。
明仁今上天皇は退位されるので、上皇と呼ばれるようになります( 江戸時代の光格天皇「1771~1840、院政1817~1840」以来約200年ぶりとなる)。
現在は憲法で「宗教の自由」が定められているので法皇は無いと思いますが?退位されて仏教に帰依された上皇のことを法皇と呼んでいます。
平清盛の出世についてですが、「平家物語」では清盛の父親が白河法皇だと書かれていて、それが出世の要因だとも書かれています。
先生は後の創作ではないかと考えているよ、最高位の太政大臣まで出世したのは清盛の実力だと思います。

『平家物語』巻第九「一ノ谷の戦い」

一ノ谷の戦い概要

ZENRINの地図でも確かめてほしいのですが、三宮の生田神社(生田の森・平家生田口)と山陽電鉄の山陽塩屋(平家塩屋口)までは約14㎞あります。

戦闘が行われた範囲の広さがわかります。

「関ヶ原」の徳川家康布陣の桃配山と石田三成が布陣した笹尾山は直線距離で4㎞たらず、長曾我部盛親陣地の東端まで入れても10キロ範囲に成ります。

実際の戦闘は狭いさ3~4㎞四方で行われたと思いますので、比べてみるといかに広いか分かりますね。

前哨戦

寿永3年(1184年)2月4日、頼朝軍は総攻撃を7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎(摂津道経由)を、義経が搦手軍1万騎(丹波道経由)を率いて京を出発して各々丹波と摂津へ向かいます。

平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていました。

一ノ谷合戦図2月4日~2月7日(出典:ウィキペディア「Wikipedia」)

 

同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破します(三草山の戦い)。

前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃しています。

 

2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じています(後白河法皇の策謀と思われます)。

平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説もあります。

迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせました。

義経は僅か70騎を率いて山中の難路(六甲山中)を西へ転進しています。

 

『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきたと記載があります。

猟師が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、猟師は冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えています。

義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介しました。

 

義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせています。

難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に到達しました。

断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していませんでした。

それでは断崖絶壁を見にいってみましょう。

一ノ谷と思われる「須磨公園」の山をロープウェイで登ってみます。

 

「ブラタモリ」でも取り上げられたロープウェイの後のカートウエイという乗り物で登ります

 

塩屋口開戦と生田の戦い

2月7日明け方、日の出を待って義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口(一ノ谷・西方面)の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まりました。

平氏は最初は少数と侮って相手にしませんでしたが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲みます。

直実らは奮戦しますが多勢に無勢、討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となりました。

 

午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣(生田川をはさんで西側に陣を構築)の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣します。

範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていました。

平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませます。

平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開、範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねています。

そこへ梶原景時(かじわらの かげとき)・景季(かげすえ)父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して奮戦しています。

 

義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃します。

生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できませんでした。

源平合戦図屏風(埼玉県立博物館所蔵)

 

源平合戦図屏風(山梨県立博物館企画展・場面説明図)同じものでは無いようですが…

 

能・謡曲における「箙」の梅

西国の僧が都行く途中、摂津の国、生田川のあたりに着きます。

そこで咲き誇る梅に気づき、僧が眺めていたところ、一人の男が通りかかります。

旅僧が男に、梅の名を尋ねると、男は「(えびら)の梅」と呼ばれていると答えます。

なおも旅僧は箙の梅の名の由来を尋ねます。

神戸生田神社に残る「箙の梅」

 

すると男は、昔、生田川周辺で源平の合戦があり、梶原源太景李が梅花の枝を箙(えびら・矢を入れて携帯する道具)に挿して奮戦した、それが由来だと教え、源平の合戦の様子をつぶさに語り始めます。

やがて夕刻になり、僧が一夜の宿を請うと、男は景李の亡霊であると正体を明かし、花の木陰に宿をとるようにと言い、消えます。

 

夜半に僧が梅の木陰で休んでいると、箙に梅を挿した若武者が現れます。

僧が誰かと問うと景李の霊だと答えます。景李の霊は、修羅道の戦いに駆られる様子を見せます。

なおも一の谷の合戦で箙に梅の枝を挿し、先駆けの功名を得ようと、敵に向かい、秘術を尽くして戦う場面を見せるうちに夜が明けます。

僧の夢の中、景李の霊は暇を告げ、供養を頼んで消えていきます。

私も子どもたちと一緒に梅を背負ってブログ道にまい進したいですね

 

主人公の梶原源太景李は源氏方の武将で、源頼朝に重用された梶原平三景時の嫡男です。

一の谷の合戦で、生田川付近で戦った景李が、色の異なる花をつけた梅の枝を箙に挿したというエピソードが物語のもとになっています。

みずみずしい若武者と盛りの花をつけた梅の枝、その取り合わせは、血みどろの陰惨な戦闘の場であるからこそ、際立って美しく輝く美を感じさせます。

 

昔の侍はただ、戦闘に没頭する武骨なだけの存在ではありません。

和歌や管弦に秀でる者もあり、風雅な心を解し、美への感受性も高かったようです。

武将の位にある者たちは、深い教養と独特の美学を持っていました。

 

この能や謡曲でも、そういった侍の美学が陰影深く描写されています。

また一方で、歴史に残る合戦の、勇猛で苛烈な戦闘シーンの描写もあり、全体的に生き生きとした躍動感を楽しめる曲です。

 

梶原の二度駆け

この戦いにおいて、梶原景時(かじわらの かげとき)は「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをします。

『平家物語』では、まず源氏方から河原太郎次郎兄弟が卯の刻午前6時の戦闘開始を待ちきれず、逆茂木を躍り越え、一の谷の城塞の中に斬りこんでいきます。

しかし平家軍に矢を射かけられすぐに射殺されてしまいます。

神戸「生田神社」平氏の陣地生田の森の面影を残しています

 

河原太郎次郎兄弟が討たれたと聞いた景時は、「今や気も熟した攻め寄せよ!」と配下の足軽に逆茂木を取り除かせ、一の谷の城塞の中へ五百騎で駆け入ります。

しかし次男の景高(かげたか)が、先行しようと押し進んだので、景時は使者を飛ばし、「後に続くものが無いのに先駆けをはやる者には、恩賞を与えるなと大将軍の命令でであるぞ」と呼び止めますが、「武士が継承した梓弓を引いたからには元に戻すことは無い(引き返すことはできません)」と申し上げろといって疾走します。

「仕方のない奴じゃ。続けや者ども。景高を討たせるな!」といって長男の源太景季(かげすえ)・三男景茂(かげもち)と共に500騎で敵大勢の中に駆け入り、さんざんに戦いわずか50騎ばかりに打ち破られて引き返します。

その時、長男源太景季は帰ってきていませんでした。

「生田神社」に残る生田の森

 

景時は、「景季は、敵陣深くはいり込んで討たれたのではあるまいか」「この世に生きているのも子供の為、源太が討たれてこの世で生き長らえて何をしょうぞ、引き返せや」 と再び平家の陣中に突入していきました。

平知盛はその姿を見て 「梶原は東国で名高い兵ぞ、討ち取れ」と命令します。

平三景時は、源太を探すため敵の大軍の中を縦、横、八方、十文字に駆け巡りました。

 

源太は2丈ばかりの崖を後ろにして敵5騎のなかにとりかこまれわき目もふらず、命をおしまず、ここを最後と闘っていました。

梶原は、これを見つけ「源太、父は此処にいる、死んでも敵に後ろをみせるな」といって、親子で敵三人を討ち取り2人に傷を負わせます。

梶原平三景時「武士はは攻めるも退くも戦機によるのだ、さぁ源太」といって源太をかかえ馬にのせ、敵陣を出たのでした。

「生田神社」に残る生田の森

一ノ谷の闘い

逆落とし

精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は勝機と見て坂を駆け下る決断をくだします。

『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下ったと記載されています。

義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下りました。

旗振山253mの山頂にある説明版

 

山頂から見下ろした一ノ谷

 

坂東武者たちもこれに続いて駆け下り二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づきますが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下ったといわれます。

一ノ谷の断崖

 

義経らもこれに続き、大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下っています。

なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいません(軍記物ってフィクションも有なのかも...)。

 

崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入します。

予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけて回ります。

平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出しました。

遠くに見える岬が「和田岬」「ポートアイランド」「神戸空港」手前の市街地が平氏「一ノ谷本陣」だと思います

 

山頂からは平氏の本拠地瀬戸内海を見渡せます「瀬戸大橋」と「淡路島」

 

鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越・ひよどりごえと号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分かります。

これが坂落しを意味すると解釈されています。

九条兼実の日記『玉葉』では「搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。」と戦況を書き残しています。

ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記していますが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていません。

私が登った「須磨公園」が逆落しの場所で、一ノ谷の裏手「鉄拐山」もしくは「旗振山」とする説(一ノ谷説)を元にブログを書いていますが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロ・神戸電鉄「鵯越駅」近辺)となっており鵯越説も根強く、またそもそも坂落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力です。

現在鵯越という地名はJR長田駅東から北西に伸びる地域で、六甲山裏の有馬街道を進んだ義経が、鵯越を南下して福原を直接的に急襲したのか?六甲山中鵯越を西に移動して一ノ谷を急襲したかについては、もう少し検証が必要だと思います。

平氏敗走

とにかく、義経の急襲が成功したことは間違いがなく、混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破されてしまいます。

逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出しました。

生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かっています。

午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じます。

知盛は必死に防戦しますが、兵が浮き足立って、遂に敗走を始めてしまいました。

安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かいました。

【後醍醐天皇三部作記事リンク】

さとね
今回はストーリーがいくつも有って、面白かったですね^^
それに、昔の武士ってかっこよかったんだって改めて感じました。
殺伐とした戦場の中で、一輪の梅の花に美を求めるなんてなかなかできることではありませんね。
今回、長すぎて半分になってしまいましたが、『平家物語』のファンになりました~~w

市郎右衛門
さとね君、良いところに気が付いたね、日本人の美意識はこんな所から生まれたのかもしれないね。
戦国時代の大名の家紋ですが花や草をモチーフにしているのを知っているかな?
例えば、織田信長の家紋は「木瓜」だし豊臣秀吉は最初瓢箪を使っていたが後に「五七桐」・徳川家康は「三つ葉葵」・明智光秀「桔梗紋」・上杉謙信「竹に雀」・武田信玄「武田菱」田の字をモチーフにしたともいわれますが、菱は一年草の水草です。
そもそも、源氏は「笹竜胆」平氏は「揚羽蝶」ですが、藤原氏「下がり藤」橘氏「橘」と天皇家から氏をもらった一族にはそれぞれの日本らしい家紋が有るのです。
アッ!この話、またしっかりどこかでお話しましょう。

最後に一言

【最初に読んでほしい記事リンク】

市郎右衛門
今回は源平合戦「一ノ谷の戦い」で終わってしまいました。
情報量が多くて一万文字を優に超えそうになりました。
次回は早いうちに続編、「青葉の笛(わかばのふえ)」で有名な「平敦盛(たいらのあつもり)」の悲話ゆかりの地を訪ねます。
いつも応援ありがとうございます。
歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

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|o´艸)。oO(Thank you)。

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