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「忠臣蔵外伝」 大石内蔵助の妻りくと我が家の討ち入り蕎麦
歌川国芳「仮名手本忠臣蔵 十一段目」立命館大学蔵

12月14日は、「忠臣蔵」赤穂浪士の討ち入りの日です。

我が家では赤穂浪士の討ち入り日に合わせて、毎年お蕎麦を食べています。

昨年までも「我が家の討ち入り蕎麦」と題してわが家に伝わる古いお話をさせて頂いておりました。

リフトしながら撮影するのが難しいのです

 

今年も同じ話ですが、新ブログにてリライトさせていただきました。

テレビで時代劇が少なくなって、年末恒例の「忠臣蔵」が毎年見られないのが時代劇ファンの「市郎右衛門」は残念です。

忠臣蔵ファンも、豊岡市鞄関係者・ファンの皆さんも必見のブログに成っていますので、お楽しみください。

少し写真の説明をさせてください、(器は作年度兵庫県芸術奨励賞を受賞された丹波焼作家「俊彦窯」の清水剛さんの作品。

箸置きは信楽焼作家の篠原希さんの焼き締め、おてしょう(小皿・お手塩「但馬ではよく使う言葉ですが、意外に神戸では通じません」)は私の自作です。

お箸は親友ブロガー◝( ꒪౪꒪)◜ケケケ…のtaka:aさんからのプレゼントです。

 

つまり、我が家では赤穂浪士討ち入の日(毎年12月14日と決めているわけではありません)の晩御飯はお蕎麦なんです。

実際の討ち入りは15日未明なんですけれどね!

市郎右衛門
実は今年はまだ食べておりません。
親友ブロガーのtaka:aさんが毎年送ってくださっている美味しい年越しそばを兼用したいと考えています。
私の体調不良もありまして、サンタさんが来なかった我が家の家族団らんの楽しみにしたいと考えています。

「市郎右衛門家」と忠臣蔵、大石内蔵助と妻りくの関係

我が家の昨年の討ち入り蕎麦!

 

話せば長いお話なのですが、簡単に書きますと、大石内蔵助の妻りくの父親、豊岡藩京極家家老「石束源五兵衛」と我が家ご先祖「赤木市郎右衛門」が懇意にしていたようです。

赤穂義士討ち入り成功(仇討ち成就)が伝わると、当代「市郎右衛門」が近所に蕎麦を振る舞ったという、言い伝えが残っているのです。

ただし、新暦1703年当時蕎麦切りが、全国に的に広まっていたかは疑問があり、蕎麦がき程度ではなかったかと考えていますf(^_^;)

 

蕎麦といえば、兵庫県では豊岡市出石町の「皿そば」が有名です(ご存知ですよね)。

赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日 (旧暦1702年12月14日は新暦1703年1月30日に当ります)です。

出石藩仙石家藩主仙石政明が信濃国上田藩より移封されたのは宝永3年(1706年)の事で、蕎麦好きの殿様が蕎麦職人をつれて但馬に来た事実を考えると、赤穂浪士討ち入り時に蕎麦切りが但馬に広まっていたとは考えにくいと思っています。

 

「関ヶ原」で活躍した、1600年に京極高知が信州飯田から丹後に移封され分家が峯山から豊岡(寛文8年1668年)へさらに移封されて但馬には蕎麦切り文化がすでにあったとも考えられなくはないですが、少し無理がありそうです。

現在の出石蕎麦facebookでもお友達仲間「一鶴」さんの皿蕎麦です。

「忠臣蔵」って何?

「忠臣蔵」とはどのような話なのか知らない人がいるとも思えないのですが、若くて時代劇を見ない皆さんの為に簡単にあらすじをご紹介します。

「忠臣蔵」⇒「忠臣(ちゅうしん)・内蔵助(くらのすけ)」の話は江戸時代中期の1701年に起こった「赤穂事件」がもとになっています。

この事件は、1701年3月14日に江戸城内の「松の廊下」で起きた刃傷沙汰にさかのぼります。

 

この日は朝廷から下向していた勅使たちへの返礼をする、幕府にとって大切な儀式がおこなわれていました。

勅使たちの接待役を務めていたのが、播州国(現兵庫県赤穂市・相生市・上郡町)赤穂藩主の浅野内匠頭です。

江戸城本丸「松の廊下」で、浅野内匠頭が江戸幕府の家臣、儀式の指導役吉良上野介を刃で切り付け、重症を負わしたことが発端となります。

時の将軍、徳川綱吉はこの出来事に激怒し、浅野は即日切腹となった一方で、吉良上野介は眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、彼自身にはなんのお咎めもありませんでした。

 

江戸時代の慣習は、事件の加害者と被害者は共に処分がある「喧嘩両成敗」という決まりでしたが、処分が下ったのは浅野側のみでした。

浅野内匠頭は即日切腹となっただけではなく、治めていた赤穂藩は改易(取りつぶし)、藩士は失業し浪人(赤穂浪士)となりました。

結果を不服とする赤穂藩の筆頭家老・大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士は、藩主の無念を晴らすべく赤穂藩改易の撤回運動を行います。

 

しかし、運動は思うようにいかなかったため、赤穂浪士たちは主君の仇討ちのため、吉良上野介を討ち取ることを決意します。

大石内蔵助ら47名の藩士は水面下で準備をすすめ、浅野内匠頭の命日でもあった元禄15年12月14日の未明に吉良邸への討ち入りを果たし、およそ2時間後に吉良上野介を発見し、その首をとって目的を達成したのです。

吉良邸を引き揚げた一行は、浅野家の菩提寺である泉岳寺に向かい、亡き主君の墓前に吉良の首を供えました。

片岡千恵蔵の大石内蔵助!1961年作品

 

赤穂浪士たちの行動は、テロリストとして死罪か忠義の侍として助命するか、幕府内でも賛否両論に分かれます。

世論としては助命の声が大きく、幕府内でも意見が揺れに揺れた結果、ついに「徒党を組んで暴挙に至った復讐」と判断され、切腹という処分が下されました。

1303年2月4日、各大名屋敷に預けられていた赤穂浪士たち46人が切腹、一連の事件は終焉を迎えます。

 

その後、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら』として寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演され評判をえます。

「市郎右衛門」と大石りく

我が家のご先祖と大石内蔵助の妻りくとの関係と経緯についてご報告します。

離縁されて実家に帰って来ていたりくと子ども達ですが、のちに三男大三郎が、忠臣の子息と言うことで、広島安芸・浅野本家に仕官がかないます(りくも忠臣の妻として録をもらってます)。

 

その際に懇意にしていた我が家で家財(今でいうオークション?)を売って、路銀のたしにして広島へ向かいます。

そのとき石束家からの家屋を借りた礼として、我が家に豊岡藩主京極家拝領の「野点茶道具」を譲られたと伝えられています。

実物確認は出来ていません、時間が有るときに倉の中を徹底的に調べてみようと考えています。

 

この言い伝えついて私が調べますと、石束家と懇意にしていた事実は変わりませんが、家財を売った人物とその経緯が違うのではないかという疑問がうまれました。

但馬豊岡藩京極家と大石(内蔵助妻)りくの実家、石束家とわが家との関係に、新しい事実が出て来たのでご報告したいと思います。

 

当時の石束家は但馬豊岡藩、京極家筆頭家老として1200石の家柄でした。

貞享4年(1687年)にりくが播州赤穂藩浅野家、筆頭家老大石(内蔵助)良雄(知行1500石)の正室となったのも頷けます。

大石りく、長女くう、次男吉千代ですかね~?

顕彰碑

石束三代、我が家の謎究明

調べてみると、我が家の言い伝え「大石りくの父、石束源五兵衛が娘と一緒に広島安芸へ隠居する際に懇意であった我が家で家財を売り払った」との言い伝えに疑問が出てきたのです。

「源五兵衛」が誰なのかについて調べてみることにしました。

大石りくの父、石束源五兵衛

大石りくの父、石束源五兵衛は寛永18年(1641年)、但馬国豊岡藩(豊岡藩京極家は寛文8年1668年移封なので、丹後峯山藩時代の生まれと考えます)、京極家筆頭家老の石束毎術(知行1200石)の長男として生まれます。

本名は「毎公」でしたが、主君京極高住に対しては「毎好」を使っています。

 

佐々休西(佐々成政の曾孫・話が大きく成ってきました)の娘と結婚し、その間に石束毎明・石束毎済・りく(香林院)などの子をもうけます。

延宝2年(1675年)、父の隠居により家督相続、このとき父と同じ源五兵衛に改名し、筆頭家老職を継ぎます。

赤穂事件の際には、赤穂藩浅野家改易後の元禄14年(1701年)5月には大石(内蔵助)良雄が、遠林寺で赤穂藩残務処理にあたっている間、りくやその子・松之丞(大石良金)通称は主税(ちから・こちらの方が有名ですね)らを石束家に受け入れ、この際に良金に自らの脇差を与えています。

 

7月に大石良雄が山科に住居を落ち着けると、りくや良金たちも山科へ移りますが、次男の吉之進(碑文では吉千代)は石束家に残っています。

元禄15年(1702年)4月15日、仇討ち計画が進むなか大石は、盟約に加わることを望んだ長男良金(主税)を除いてりくと子らを、再度石束家に戻しています。

このときりくは身ごもっており、7月に石束家にて大石大三郎を出産しています。元禄16年(1703年)に家督を長男の毎明に家督を譲って隠居しました。

正徳3年(1713年)7月25日に死去、享年73

大石りくの兄「石束毎明」

石束家を継いだ、りくの兄石束毎明(いしづか つねあき)、生年不詳~宝暦5年1月15日(1755年2月25日)もちろん豊岡藩・京極家の筆頭家老です。

通称は宇右衛門(うえもん)です。

元禄16年(1703年)に石束家の家督と家老職を相続しています。

この際に300石を加増され、石束家の家禄は都合1500石となりました。

しかし享保12年(1727年)主家京極家が無嗣(後継ぎがいない状態です)になり、京極高永に家督相続が認められたものの3万石から1万5千石に半地(末期養子の決りですね~(^^;)される事件があり、石束家の家禄も半減してしまいます。

 

毎明はこの半減に対応するため、積極的に家人(武士)のリストラと倹約にあたり、豊岡藩京極家の財政維持にあたります。

殖産興業に力を尽くし、のちに豊岡の名物品となる柳行李を生産させたのも、彼の業績なのです。

現在では、その柳行李の代わりに鞄の生産に取り組んで、豊岡鞄は日本全国シェア70%を誇る迄に成っています(豊岡の鞄関係者の皆さん知ってますか?)。

 

中谷高房の娘を妻に迎え、その間に石束毎雅をもうけます。

毎雅に家老職を譲りますが、嫡男毎雅は京極高永と御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)には家老を辞して京極家を去ることとなり、毎明も豊岡を去っています。

 

晩年は甥、大石大三郎(大石良雄の子)のもとに身を寄せています。

宝暦5年(1755年)広島で死去。

妹・りくと同じ国泰寺に埋葬されました。

大石りくの甥・毎雅

さあこの人物です。

石束毎雅(いしづか つねまさ)、元禄13年(1700年)~宝暦2年5月22日(1752年7月3日)は、父毎明より石束家の家督と筆頭家老職を相続しましたが、主家京極高永と対立を深めて御家を去ています。

通称は、一学(いちがく)、源五右衛門(げんごえもん)、宇右衛門(うえもん)。

父毎明から豊岡藩・京極家筆頭家老職を受け継ぎ、また前の君主京極高住の娘万里姫を妻に迎えますが、当代主家・京極高永とは御家改革を巡って対立を深め、延享4年(1747年)に家老を辞して豊岡藩を去ることになってしまいます。

その後は京都に隠遁し、宝暦2年(1752年)に同地で死去しています。

墓は京都の妙心寺に有ります。芳名は馨徳院殿立所?伯居士。

さてここで問題が起こるわけです。

我が家の言い伝え石束家が家財を売ったという話は、お父さんか?りくの兄か?それとも殿様と喧嘩別れしたりくの甥かという事です。

どうも当初は赤穂事件に関係している(石束家から大罪人の妻を出した!)と考えていましたが、りくの兄や甥の可能性の方が高いのではないかと思われます。

理由の一つは、父が「源五右衛門(石束毎雅の通称です)」の名前を記憶(先祖から伝えられていること)二つ目は我が家に置いて行ったとされる、野点の茶器が京極の殿様から拝領したものだと記憶(先祖から伝えられていること、そんな大事な物をと考えますよね)等です。

しかし殿様と仲たがいして豊岡藩を去ったなら、「もういらないわ」とも考えられます(笑)

豊岡市正福寺の大石りく遺髪塚、長女くう、次男吉千代?吉之進の墓

 

大石良雄妻理玖の墓はちょっと歌いすぎではないですかね~笑

 

さとね
つまり、先生が調べてみると源五兵衛さんが二人居たって事ですね。
それもおじいさんの源五兵衛さんは広島に行っていないということですか?
それならば孫で殿様と喧嘩した源五兵衛さんが京都に隠居するときに先生のお宅でオークションしたってことになりますね。
「市郎右衛門」の名に懸けて事件は解決~~~!

市郎右衛門
「市郎右衛門」の名に懸けてって何ですか?
ああ!金田一少年の事件簿ですね、最初「金田一耕助の名に懸けて」って言ってたのがクレームで「じっちゃんの名に懸けて」に変わったって知ってました(笑)
余談はいいとして、伝聞は話が大きく成ったり変わったりするので、きをつけないといけないね、「伝言ゲーム」が面白いのは全く最初の伝言が変わってしまうからなんだよ。
日本最古の書といわれる「古事記」も伝聞を基に書かれているね、真実を見つけるのは難しい作業の積み重ねだと思わなくてはいけないね。

昨年新資料発見「大石内蔵助の妻りくによる直筆の手紙」

大石りくの自筆文章が見つかる

昨年、「忠臣蔵」で知られる大石(内蔵助)良雄の妻りくによる直筆の手紙が昨年、りくの出身地、兵庫県但の馬豊岡市で見つかり大いに盛り上りました。

手紙には大石良雄の遺児となった三男の(広島浅野本家への)仕官や、次女の縁組への喜びがつづられ、関係者は「300年の時を超え、りくの思いがよみがえった」と喜んだそうです。

 

りくは、大石良雄との間に3男2女をもうけています。

三男の大三郎をみごもっていた時、家族に罪が及ぶのを避けるため、討ち入り前に豊岡に帰されています。

夫の死後も子どもたちを育て、赤穂義士の評判により三男が広島の浅野家の本家に召し抱えられ、一緒に広島に移っています。

 

書状は豊岡市城崎町の土産物店主で、郷土資料を集める森貞淳一さんが約10年前に古書店から購入し、保管していたそうです。

今年夏に資料を整理した際、同市立歴史博物館の資料調査員、石原由美子さんに調査を依頼、筆跡や宛先・朱書きされた年号などから本物と確認されました。

手紙は討ち入りから12年後の1714(正徳4)年10月、三男の仕官にも尽力した大石家の親戚に宛てたものです。

「かように子供仕合(しあわ)せよくなり候(そうろう)」「祝言(しゅうげん)用意にとりこみまいらせ候」

などと、仕官できたことへの感謝や、次女るりの婚礼の支度に追われている幸せをつづっています。

同時に見つかった三男の書状も、姉の婚礼が無事終わったことへの礼などが書かれています。

 

石原さんによると、市内に残るりくの書状は実家の菩提(ぼだい)寺に残る1通だけで、新資料は貴重なものだそうです。

大石(内蔵助)良雄の死後、りくと子らが再び幸せを取り戻していく様子が分かる文章として注目されています(地方歴史学者も捨てたものではありませんね~)。

市郎右衛門
本当に地方の歴史学者の皆さんもまじめに取り組んでおられるんだと感心するね。
さとね君、われわれも負けずに頑張っていこうじゃないか!
来年はフィールドワークの予定もいくつか入れているからね。

さとね
え~~~!
旅行行けるんですか?温泉に山登り、美味しいお魚やお肉食べたいです^^。
私、神戸生まれなので、ちょっとお肉にはうるさいですよ、神戸ビーフ最高ですからネ。
お祭りとかもあったら行きたいですw
もちろん旅費は先生もちですよね、ごちに成ります。

日付うんちく話!

本当の討ち入り日はいつ?

最後にすごく余談なお話をいたしましょう(笑)。

赤穂浪士の討ち入りは、12月14日とされていますが、実際は15日未明です(ただし当時では朝日が登って翌日の感覚だった様です)。

何故15日を選んだかですが、もちろん月明かりの必要性です。

松明や提灯を持っていたとしても、元禄時代の事、ネオンや街灯が有るわけではありません。

月明かりが無いと戦えない状態になります。

旧暦は陰陽歴ですから、15夜は必ず満月に成ります。

 

又、旧暦元禄15年12月14、15日はユリウス暦1703年1月30、31日に成りますし、今年の旧暦12月14、15日は、新暦2018年の11月8・9日に成るはずです。

昨年は、新暦2017年12月31日と2018年1月1日でした(昨年の除夜の鐘は天候が良い地域では満月の中で明るかったはずです)。

 

だからどうなんだのお話です。

「忠臣蔵外伝」 大石内蔵助の妻りくと我が家の討ち入り蕎麦と題して、いかにも12月14日はお蕎麦食べます的にお贈りいたしました、討ち入り蕎麦をいつ食べるのかはっきりと決めているわけではないのです。

今年は大晦日に成りそうです(それって年越し蕎麦じゃない?との声も聞こえて来そうですが(;^_^A)

ブログ更新の関係で今年は12月14日は無理と判断いたしました。

さとね
(・_・D フムフム
つまり、美味しいお蕎麦が食べられる日が12月14日・15日のほかに、来年の1月30日・31日でもいいし、11月8日・9日でも良かったって事ですよね~。
毎年討ち入り日と考えてもいいかもしれない日が6日あるってことですね。
私はお蕎麦大好きなのでもっと多くてもいいですよw
出石の「皿そば」美味しそう、もちろんフィールドワークに入ってるんですよね~~~!

最後に一言

我が家では、この時期にお蕎麦が食べたく成ると、子供たちに少しだけ「忠臣蔵」・赤穂浪士のお話と、我が家の歴史を話して、お蕎麦(必ず出石蕎麦)を食べる事にしています。

わが家は古い家なので(お金は持っていませんが)、出来るだけ昔の話を子供たちにしてやりたいと考えています。

島根県出西窯の器に輪島の塗り箸をそえた一昨年前の討ち入り蕎麦です。

 

子どもたちの日本史の成績が悪いのがたまにきずなのですが、そういえば蔵の中の整理をしなければなりませんね(-"-;A ...アセアセ。

赤穂城も訪れていないので(兵庫県広いんですよね)出来れば来年は訪れたいと思っています。

市郎右衛門
ちょっと手前味噌な記事になってしまいましたがいかがだったでしょうか?
何処のお家にも歴史はあると思いますので、我が家のような古いお宅でなくても記念日などは、大切にしていっていただきたいです。
結婚記念日や誕生日も大切な記念日ですからね~!
来年は新天皇が即位されるので、12月23日は祝日ではなくなるそうです。
上皇となられる今上天皇が崩御されたら、「平成の日」とかになるのかな?少しでも長く「平成の日」が祝日にならないことを願ってやまない「市郎右衛門」でした。

年末のこの時期には必ず「赤穂浪士」の映画やドラマが有ったものですが(今年はBSで放送していますね)、時代劇が少なくなり歴史ファンとしてはさみしいかぎりです。

いつも応援ありがとうございます。歴史って本当に面白いですよね~!

今後もランキングにはこだわって良い記事をUPしたいと思います。

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|o´)oO(Thank you)

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